[#表紙(表紙.jpg)] 群 ようこ 猫 と 海 鞘 目 次  謎のヤギさん犬  少年アシベと呼ばれても  恋愛するのも楽じゃない  トイレと若さの微妙な関係  スケバンのスカート  母にとりつく病  虐待なのか愛なのか  ブリのあら煮派宣言  うぐいすもちができるまで  夢の不思議  決意のダンベル  ベルトだって空を飛ぶ  わが家のBS戦争  ごみ袋収集中  母のアルバム  気がつけばひとり  おばさん百態  非情のナンパ運ふたたび  雀鬼への道程  マッチョ嫌い  ゆ る い 男  水 着 繚 乱  百 猫 百 様  タイのクチボソ  ビデオマニア   あ と が き [#改ページ]    謎のヤギさん犬  うちの近所に、まるでヤギさんみたいにおとなしい雌犬がいる。私はその犬と、毎日、顔を合わせるようになって、五年になるというのに、一度も、「ワン」と声を発しているのを聞いたことがないのである。門扉につながれていて、いつも道路で腹這いになっている。そして通り過ぎる車や人を、退屈そうに見上げているのだ。 「こんちは」  と声をかけても、愛想よく尻尾を振るわけでもなく、つんと無視するわけでもない。ふつうは犬といえども、ここぞというときには、それなりに自分の性根をみせるときがある。ある犬は番犬としての任務を肝に銘じて、飼い主以外の人間に対して、 「そんなに吠えなくてもいいじゃない」  といいたくなるくらい吠える。またある犬は餌をもらうときだけ、必死になる。飼い主にとっては問題が多いかもしれないが、それもまた犬の個性である。しかしその犬は、とにかく何に対しても、無感動、無気力なように見える。餌を食べているときでさえ、淡々とどうでもよさそうな顔をしている。他の飼い犬が散歩のついでに、ヤギさん犬を見つけて吠えていても、じっとその犬の顔を見ているだけ。縄張りという意識もないようなのだ。 「この犬には感情があるのだろうか」  私が犬の前に立っていても、こちらの顔を上目づかいに眺めている。本当に口から音声を発することがない、おとなしいというかやる気のない犬なのである。  ところがある日、私が買い物の帰りに、その犬が寝そべっている路地を歩いていると、むこうから四人の女子大生が歩いてきた。手に抱えている英語の辞書やノートから、かろうじて彼女たちの本業が何であるかがわかる。しかし格好だけ見ていると、毎晩、ジュリアナTOKYOのお立ち台で、踊りまくっている、美人ではあるが脳のなかは、ディスコのことだけでいっぱいの、それだけのおねえちゃんとしか思えないのであった。  そのなかで一番、はしゃいでいる子は、金のお飾りがいっぱいついた、ショッキング・ピンクの超ミニ・ワンピース。足元も白に金のお飾りのついたハイヒールである。その隣は両肩がむきだしの、体にぴったりした白いリブ編みのTシャツに、下は水玉のひらんひらんしたミニのキュロット・スカート。そしてその隣は黒のタンクトップに、黒のニットのミニスカート。そして最後のひとりは、なんともいえない、今までの日本人だったら絶対に着なかったし、似合わなかった、生々しい紫色のワンピース。おまけに彼女がくるりと後ろをむいたら、背中はぱっくりとわれていて、肩胛《けんこう》骨が丸だしになっているのであった。もちろんみんな、びろびろにウェーブがついた、長い茶髪を風になびかせて、でっかい耳輪も指輪もバングルもつけている。歩くたびに全身から、ちゃりんちゃりんと音がしそうで、爪はもちろん、まっかっかであった。  四人は歩きながら、 「どひゃひゃひゃひゃ」  と笑い袋のように大笑いしている。 「それでさあ、あいつったらさあ、ちょっと愛想をふりまいたら、しつこくってさあ」 「だから、いったじゃん。適当にあしらっとけって」 「そうだよ。取れるだけ取ったら、あとはぽいすればいいよ」  抱えている英語の原書が泣くぞといいたくなるほど、彼女たちの会話は傍で聞いていても悲惨であった。歩きながら真剣に原発や病気の話ばかりをしているのも、問題であるが、 「あなたたち、本当に学生なの」  といいたくなるくらい、むなしい会話がかわされていたのであった。  かつて、女子大生がジーンズで講義を受けようとしたのを見て、 「ジーンズは学校に来るのに、ふさわしい格好ではない」  といった教授がいたが、当時、衣類をジーンズに頼りきっていた私は、学生の肩を持って、 「肌を露出しているわけじゃなし、ジーンズも綿のズボンの一種なんだから、別にかまわないじゃない」  と思っていた。しかし彼女たちが着ているような、最近の露出度の高い服、背中がばっくりあいていたり、肩が諸肌ぬぎになっていたりする格好は、やはり授業をうけるのにふさわしいとは思えない。きっとそういう服しか持っていないであろう、彼女たちは、 「勉強はちゃんとしているんだから、いいじゃない」  というかもしれないが、やっぱり物には限度があるはずなのである。 「親はどうした、親は」  私はそういう格好をしている子を見ると、いつもそう思う。 「お父さん、お母さんもお嘆きのことでしょう」  と同情したくなる。たしかにその年頃の服装感覚は、大人とは違うものだ。私が学生のときも親に、 「その格好をなんとかしろ」  といわれた。しかし私は無視していた。親は私の汚い格好をやめろといったのだが、別に不潔ではなくちゃんと洗濯をしていたし、きっと臭いもふりまいていなかったはずである。私は汚い人よりも露出の多い人に、嫌悪感を持つタイプだから、よけい、最近の女子大生のそんな格好を見ると、ぶつぶつと文句をいいたくなるのである。  いっそのこと、抱えている教科書やノートをバッグにいれるなりして、隠してくれれば、 「これから遊びにいくのね」  くらいにしか感じないのだが、なまじ彼女たちが、原書の表紙が見えるように抱えて、 「一応、英文学を専攻しちゃってるの」  とアピールしているところが、みじめったらしくて嫌なのだ。いっそのこと、徹底的な遊び人をきどっていればいいのに、大学生をちらつかせる。大学の図書館から借りた本を、いちばん目立つように抱えてもいる。 「私って、ちょっとは名の知れた大学に通っているのよ」  といいたいらしい。そんなところだけ、変に社会的な受けを狙っているところが、これまた私を、ちぇっと舌打ちさせてしまうのである。  彼女たちは、まるで世の中には怖い物など何もないといいたげに、元気のいい笑い声の合間に、「まじー」「やだーん」という言葉を挟み込み、横に並んでだんだん近づいてきた。彼女たちはスタイルもよく顔立ちもいい。若い男の子たちだってそんな彼女たちに、にっこりされたりしたら、腰がくにゃっとするのも当然である。性格だってちゃっかりはしているけれど、人を貶《おとし》めたりはしないと思う。  だけど私はお飾りじゃらじゃら、肌むきだしのタイプの若い女性たちが、嫌いで、エッセイにもそう書いてきた。以前、こういったタイプの女性に、 「ファンです」  といわれて、びっくりした。私の嫌いなタイプが私のことを気に入るなんて、想像していなかったからだ。そういわれても別にうれしくなく、かえって、 「彼女たちは恋愛とファッション以外のことには、鈍感なのかもしれない」  と思ったこともある。  あれこれ考えながら歩いていて、ふと見ると、ヤギさん犬が私の足元に寝そべっていた。派手な四人組と、まさに犬の前ですれ違おうとした瞬間、信じられない光景が繰り広げられた。私が五年の間、あくびをする声すら聞いたことがなかった、ヤギさん犬が、突然、彼女たちにむかって、牙をむいて吠えかかったのである。それはすさまじい猛《たけ》りかたで、 「わわわわわーん!」  とほとんど絶叫に近い吠えかたであった。生まれてこのかた、これまで何があっても、吠えることなくじっと耐えていたものが、一気に噴出したという感じで、このままでは脳の血管がぶちぶちと切れてしまうのではないかと心配になるくらい、ヤギさん犬は彼女たちに襲いかかっていったのである。 「わあっ」  彼女たちはとっさのことで、心の準備ができていなかったらしく、抱えていた原書やノートを放り投げんばかりにして、がに股でとびのいた。そしてばたばたと五、六メートルほど走っていったあと、おそるおそるヤギさん犬を振り返り、 「あー、びっくりした」  と胸をさすっている。犬は犬でキッと彼女たちの姿を見据え、 「もう、そばには寄ってくるな」  というような目つきをしていて、両者はお互いににらみあっていた。 「なによ、あの馬鹿犬」 「ふざけんじゃないわ」 「あたしたちが何をしたっていうのよ」 「食っちゃうぞ、この野郎」  彼女たちは口々に怒りながら、犬にむかってあかんべーをしたり、パンチをくらわす格好をしていたが、それを見た犬は、またまた大地に脚をふんばり、 「わんわんわん」  と腹の底から声を出して、とうとう彼女たちを追っ払ってしまった。犬は生まれて初めて興奮したのか、肩ではあはあと息をしていた。そして私と目が合うと、いつものように地べたに這いつくばり、何ごともなかったように、退屈そうに目を閉じてしまったのであった。  私はこのヤギさんのような犬を、 「よくやった」  とひしと抱きしめて、頬ずりをしてやりたくなった。私がうさん臭いと思っていたものを、この犬も同じようにうさん臭いと思ってくれた。これで私たちの心は通いあったも同然である。犬もにこにこしている私に対して、尻尾くらい振ってくれるかと期待したが、じっと目を閉じたままで、さっき自分がやったことの余韻にひたっているようであった。彼女たちは犬に対して、何も悪いことはしていなかった。ただ自分たちのおしゃべりに集中していただけである。そんなことはヤギさん犬の前では、何度も繰り広げられた光景で、別に珍しいことでも何でもない。あるときは学校帰りの小学生が、 「犬、犬」  とからかっているのを見た。おばさん四、五人が、 「がっはっは」  と大声で笑いながら、犬の前を通りすぎることも多い。しかしヤギさん犬はそういう人を見ても、単にちょっと迷惑そうな顔をするだけで、ただひたすら、けだるそうにしていた。ところがあの女子大生が通りかかったとたん、猛然と吠えかかっていった。 「こいつら、気にくわない」  という何かを感じたから、行動にでたはずである。見てくれが派手で、精神的にどこかケモノを感じさせる彼女たちに、同じ生き物として相容れないものを感じとったのか、若い彼女たちが発散する、ジュリアナTOKYO向きのフェロモンが、郊外の一般家庭の飼い犬には気にくわなかったのか。それから私はなんとかヤギさん犬と、親交を深めようとして、愛想をふりまいているのだが、相変わらず、犬は無気力、無感動である。だからなぜあんなことが起こったのか、いまだに謎のままなのだ。 [#改ページ]    少年アシベと呼ばれても  十五年ぶりで髪をショート・カットにした。二十代のころから、おかっぱ頭を続けていたのだが、当時は、短めに切り揃えただけで、 「どうしたの、失恋でもしたの」  と聞かれたのに、四十歳が近くなった女に対しては、ヘアスタイルをがらっと変えたのにもかかわらず、そんなことをいう人など一人もいない。それどころか、 「短くすると、楽でしょ」  と、見てくれよりも実用性を重んじてそうしたかのようにいうのである。  おかっぱは本当に便利な髪形だった。着る服を選ばず、少しクセのある私の髪には、ただ洗って乾かせば済む、手間いらずの頭だった。若い女性の髪形を見て、 「どうしてあんなに不必要に、長い髪をしているんだろうか」  と思うのだが、彼女たちにとっては、髪の毛をいじっている時間が、自分が美人だとうっとりできる時間なのである。以前、銭湯に通っていたときに、長い髪の若い女性が隣にきたことがあった。彼女はまるで人魚姫みたいに横座りをして、 「ふふーん、ふふーん」  と鼻歌を歌いながら、うれしそうな顔をして、左肩のあたりにまとめた濡れた髪をさする。そして両手で濡れた髪を、上げたり下げたりしながら、鏡に映る自分の顔をうっとりと眺めている。そして時折、満足そうに、にっと笑ったりするのである。横で見ていて、 「そんなにうっとりするような、顔でもあるまいに」  といいたくなったのだが、とにかく彼女は、自分の長い髪をいじくっては、至福の時間を過ごしていたのである。  長い髪だと、どういうわけだか女性は自分がきれいだと錯覚するようだ。というのは、実は私もそうだったからだ。長い髪だったころの話は、私が書いたエッセイのなかでも、特に、 「あれは笑った」  と読者には受けがいいのであるが、過去の出来事とはいえ、未だに腑に落ちない部分がある。それはこういう話である。高校生のとき、体重六十キロながら、さかりがついていた私は、とにかく男の子にもてたい一心で、髪の毛を伸ばしていた。 「この長い髪にひっかかってくる男の子がいれば、もう、なんだっていいわ」  と思っていた。鏡の前の自分の姿を見ると、髪の毛が短いときよりは、何となく女らしいように見えた。髪の毛をかきあげて、にたっと笑ったりすると、密かに憧れている男の子も、ころっとまいるような気がしていた。顔はともかく、髪の毛だけはきれいだったので、後ろをむくと、もっとよかった。だから私は合わせ鏡にして、背中の真ん中くらいまである、黒くてつやのある髪の毛を、うっとりと眺めていた。座っているので胴長、短足もわからない。合わせ鏡で見た私の後ろ姿の上半身は、完璧だったのだ。  新発売されるシャンプーはすべて試し、もちろんリンスも怠ることなく、美しい髪の毛を維持するのに、執念を燃やしていた。 「やっぱり、長い髪のほうが似合うわね。どっちかというと、平安時代風だけど、私みたいなタイプがいいっていう男の子も、きっといるに違いないわ」  本人は自信まんまんだったのだが、私みたいなタイプがいいという男の子なんて、いくら髪の毛をかき上げたところで、現れなかった。それどころか体重六十キロで長い髪の私は、みんなに、 「ミッキー吉野」  と呼ばれたのである。ちょっと太って目は細いけれど、南沙織と大差はないと思っていたのにだ。思春期の高校生、それも女子高校生に「ミッキー吉野」とはあんまりだと、母親に訴えたのだが、彼女はテレビに出ている彼と私を見比べたあげく、 「うまいこというわねえ」  と感心していた。そんなことはない、私は長い髪がチャーミングな高校生なんだと、自らにいいきかせていたが、それは無駄だということがわかった。ひどいのになると、「山伏と呼ばれるのと、ミッキー吉野とどっちがいいか」と聞いてくる者まででてきた。私はむかっとして、何カ月もかけて伸ばした髪を、肩に届くくらいの長さに切った。するとみんなに、武田鉄矢みたいといわれた。また頭にきて顎くらいの長さに切ったら、菅原洋一といわれた。とにかく暗黒の思春期であった。この経験により私は、見てくれの女っぽさを武器に男をひっかけようとする技術を、磨くことなく捨て去ったのである。  それから大学に入って、おかっぱ人生が始まるのだが、当時、おかっぱはボブといわれた流行のヘアスタイルだった。平安時代風の私の顔にも違和感がなかったが、ここでもまた、「岸田劉生の麗子像」だの「こけし」だのといわれた。しかし武田鉄矢や菅原洋一といわれるよりは、まだましだったので、私はにこにこしていた。そして麗子像、こけしは歳を取り、四十歳にも手が届くようになった。おかっぱ頭は普遍のヘアスタイルのせいか、最近は、ちびまる子ちゃんに似ているので、「まるちゃん」と呼ばれていた。私も結構喜んで、「生涯一おかっぱ」でもいいやと思っていたのだが、ふと、これでいいのかと不安になったのである。多少、長さは違えど、基本的なヘアスタイルは十何年も同じ。これこそ怠惰ではないか。大人の女としての成熟した色気というものにも、目覚めたほうがいいのではないかと、まじめに考えたのである。  鏡の前であれこれ検討した結果、中年女のロングヘアは見苦しいと判断し、ばっさりと切ることにした。行きつけの美容院にいって相談したら、スタイル見本の写真を何枚も見せられた。どれもこれも著名なカメラマンが撮影したような、外人モデルの写真ばっかりで、平安タイプの私には、どれが似合うのか、さっぱり見当がつかない。 「好きなスタイルを選んだらどうですか」  と美容師さんがいってくれたので、そのうちの一枚を選んだら、 「それ、顔が小さい人じゃないと、似合いませんよ」  といわれてしまった。 「あらー」  と思いつつ、あらためて写真を見たけれど、どれもこれも、私には似合わないような気がする。そこですべて美容師さんにまかせて、切ってもらった。それは金髪モデルがしていたスタイルで、写真を見たところでは全く私に似合うとは思えなかった。そのヘアスタイルには、ヘア・アーティストが命名した「ジェナ」という名前までついていた。 「いいかもしんない」  私はカットし終わって、鏡を見て満足した。切ってよかったと思った。おかっぱのときの首すじへもたもたとまとわりつく髪もないし、すっきりした。大喜びで家に帰ったのであるが、また鏡の前で自分の姿を映してみると、誰かに似ているような気がする。誰だろうかと悩んで、頭に浮かんだのが、「少年アシベ」であった。ゴマちゃんという名のアザラシを抱いていた、あの男の子である。耳のなかほどで髪の毛が外側にくりっとカールしているところがそっくりなのだ。せっかく成熟した大人の女になろうとしたのに、結局は「ちびまる子ちゃん」から「少年アシベ」へと移行しただけ。何をしても私は、アニメ・キャラクター路線から抜け出られないのかと、ちょっとがっくりした。金髪モデルが同じヘアスタイルをしていたら、お洒落な「ジェナ」だが、私がすると「少年アシベ」。まさに、 「うーむ」  とうなるしかない、現実だったのである。  それから私は人に会うときには、自分から、 「少年アシベみたいでしょ」  というようにした。他人にいわれるより、先に自分でいったほうが気が楽だ。高校時代に受けた心の傷は深い。とはいうものの、内心、 「あら、そんなことないわよ」  といってくれるかと期待したが、誰ひとりとして「少年アシベ」に異を唱える人はいなかった。それどころか、 「あら、ほんとね」  と心底、納得している。なかには、 「中学生のバレーボール部員みたい」  などという人もいたりして、大人の女への変身は見事に失敗したようであった。  自分のヘアスタイルに関しては、私はとても臆病である。いいかえれば自意識過剰なのだろうが、ヘアスタイルを変えて、とんでもないことになったらどうしようと、すぐ心配になる。 「プロがカットするんだから、そんなに気にすることはないわよ」  という人もいるが、どれだけの中年女がとんでもないヘアスタイルをしていることか。もしも私だったら、絶対に表に出ない、いや、出られないヘアスタイルでも、堂々と往来を闊歩している。誰にも迷惑をかけていないから別にかまわないのであるが、やっぱり嫌だ。「少年アシベ」ならまだいいが、女性なのに「大仏」みたいになったら、私だったら自主的に監禁生活を送るだろうなと思うのである。  傍《はた》で見ていてとんでもないヘアスタイルをしている人は、いったいどういう気持ちで外を歩いているのだろうか。私が変だと感じても、本人はそう思っていないのだろうが、そういう人ってうらやましい。他人がどう感じようが、自分でいいと思ったら、平気でいろいろなヘアスタイルができる人は尊敬する。洋服はその服を着なければ問題はないが、ヘアスタイルは違う。変えようと思っても、かつらを使わない限り、日がわりで変えることもできない。毛が伸びる何カ月かの間、 「ありゃ、何だ」  という好奇の目を浴び続けるというのは、相当の気構えと図々しさがないとできない。人は他人のヘアスタイルなんて、そんなに気にしてないとよくいうけれど、悪いけど笑いたくなっちゃうヘアスタイルの人はいる。他人を見て笑っているから、私は自分のヘアスタイルを変えるのに躊躇してしまう。きっと自分がやっているのと同じようなことを、道行く人が私を見てやるのだろうと思うと、美容院に行くのさえ勇気がいるのである。  知り合いの四十三歳の主婦が、今までのストレートのロングに飽きたので、長さはそのままで、パーマをかけるといった。鬱陶しいので、後ろにひとつにまとめていたのだが、テレビで篠ひろ子をみて、ずっと前からああいうふうにしたいと憧れていたのだそうだ。旦那が、 「身長が百五十センチ足らずのお前が真似しても似合わないぞ」  と何度もアドバイスしたのに、彼女は断固として篠ひろ子と同じようにするといってきかない。そこで彼も黙ったのだが、美容院に行って帰ってきた妻を見て、彼はびっくり仰天した。玄関には篠ひろ子どころか、長髪の篠山紀信がにこにこして立っていたからだ。 「どうしたんだ」  そういっても、彼女は有頂天である。私も旦那と同じ意見であったが、当人はそんなことはこれっぽっちも感じておらず、背は低いが篠ひろ子になりきって、これから不倫のひとつもしたいというのだ。周囲がびっくりしているというのに、本人だけが大満足。 「ああ、うらやましい」  私は目の前の、まるで髪の毛が歩いているような彼女を見ながら、このように堂々とした、図々しい性格に戻れたら、ひとりよがりではあるが、どんなに幸せな人生が送れるかと思ったのだった。 [#改ページ]    恋愛するのも楽じゃない  毎月、新聞広告で女性誌の見出しを見ると、恋愛関係の記事が載っていない月などないくらい、いつまでも恋愛と女性は切っても切れない関係にあるらしい。本でも「恋愛」「結婚」という文字が付くと売れ行きがいいそうである。男女が知り合って、交際が続き、あるカップルは結婚に至り、あるカップルは別れる。ただそれだけのことなのに、どうしてあんなに多くの女性が、恋愛に関心を持つのか、実のところ私には、あまりよくわからないのだ。  私は異常なくらい恋愛エネルギーが少ない女である。恋愛上手の女性は、いくつになっても年相応の恋愛が楽しめるのだろうが、私はそうではない。 「女に生まれて、あなたみたいに不幸な人はいないわよ」  という友だちもいたが、私は別に不幸だとは思っていない。もちろん今まで男性と付き合ったことだってある。が、なりふりかまわず、何がなんでも恋愛に命をかけるなんてできない性分なのだ。  これまででいちばん盛りがついていたのは、高校時代の三年間で、そのときは何とかして、彼氏のひとりも作ろうと、目を皿のようにして物色していた。学校でちょっとでも目が合うと、 「もしかして、あの子も私を好きかもしれない」  と有頂天になって、彼とのデートを思い描いては、 「ふふふ」  とひとりで喜んでいた。それも深い仲になるというのではなく、公園の池のまわりをぐるぐると歩きまわるという、他愛もないものだった。その後、彼が別の女の子と仲良く歩いているのを目撃すると、彼からは好きだとも何ともいわれていないのに、裏切られたような気持ちになった。 「ちょっといいかなって思ったけど、よく見るとそんなによくなかったわ」  と負け惜しみをいったりもした。今から思えば、自分で勝手に頭のなかで二人の仲を作り上げていただけなのだから、その男の子にしてみれば、迷惑千万な話なのだが、彼に知られなければ、実害はない。しかしこの時期に、私に勝手に好きになられて、勝手にののしられていた男の子が、五人いたことも事実なのである。  あまりに不漁が続き、私は下手な鉄砲も数打ちゃ当たるだろうと、好きな男の子を三十人くらい作った。このうちの一人が、私を好きになってくれれば、すぐ両想いになるという作戦を練り、網に魚がひっかかるのを待っていたのだが、そう簡単に魚はひっかかってくれなかった。私としては相当にレベルを落としたつもりだったのであるが、男の子が選ぶ女の子のレベルが、はるかに私を上まわっていたらしい。そしてその三十人からもれた、基準以下の男の子でさえ、私にいい寄ってこなかった。正直にいえば全くいなかったわけではないが、私は自分の嫌いな男の子に好かれても、ちっともうれしくなかったので、これは好かれた数には入れてないのである。  私はその男の子が嫌いだった。友だちも彼を嫌い、そのうえ私の母親はPTAの副会長である彼の母親を嫌っていた。父母会で彼の母親と喧嘩をしたことがあり、 「あんなにわけのわからないことをいう人は、初めてだ」  と呆れかえっていたのだ。もしも私が好きな男の子ならば、周囲の評判がかんばしくなくても、 「私は味方よ」  などと、恋心がますますつのるという場合もあるが、ただでさえ嫌なのに、そのうえ友だちからも嫌われているとあっては、私としては話すらもしたくなかったのだ。しかしそういうのに限って、ものすごくしつこい。とにかく嫌われていても何でも、押しまくっていれば何とかなるだろうと考えているらしかった。高校生だというのに、すでにおやじのような雰囲気をただよわせていて、やたら自慢ばかりする彼は、 「ねえ、ねえ」  といいながら、暇さえあればすり寄ってきた。そのたびに私は彼がにじり寄ってきた距離の二倍、離れていたのだが、そんなことをしても屁とも思わず、 「ねえ、ねえ」  とにたにた笑いながら顔を近づけてきた。あるときなど、地理の授業中に隣にやってきて、突然、手を握られた。にんまりしている彼の手のなかにある自分の手を引き抜き、にらみつけてやっても、彼は、 「へへへ」  と笑っている。登校時は駅の改札口で待っているし、下校のときには校門の前で待っている。 「ちょっと、またいるわよ」  友だちから情報を得ると、私は校舎の裏のフェンスをよじ登って、校門を通らないですむように遠回りをして帰ったこともある。はやくあきらめてくれないかと思っていたところ、学年末のクラス替えがあり、彼と別々のクラスになったときは、心底ほっとしたものだった。そして彼をあきらめさせるには、私に好きな男の子がいることをにおわせればいいと思い、同じクラスになった男の子が好きになったと友だちに話した。それは嘘ではなく本当のことだった。私としてはほどほどの噂になって、嫌いな彼の耳に入ればいいくらいにしか思っていなかったのに、私が彼を好きだという噂は、あっという間に同学年のみんなの知ることとなった。思惑どおり、しつこくつきまとっていた男の子は、私から離れていった。しかし私が好きになった男の子も、恐れをなして私のそばに近寄ろうとしなくなったのである。彼とはお付き合いしたいと憧れていたのに、絶対に一対一で私と話そうとはせずに、いつも友だちを連れていた。私は、 (こいつ、邪魔だな)  と彼の横にへばりついている友だちを横目で見ながら、腹わたが煮えくりかえる思いであった。その後、思い切って彼に告白したものの、私は見事にふられて自爆し、彼は学年で一番といわれた美人の女の子と付き合いはじめた。私の燃え上がるような恋愛感情というのは、このときが最高潮で、あとはまるで潮がひくようにずるずると後退していったのである。  世の中の女性のなかには、恋愛に対してアンテナをぴんと立てて、男性の恋愛感情を鋭く察知して、自分も敏感に対応する人がいる。しかし私にはそんなアンテナはついていないらしい。だから男性と付き合っても、ぼーっとしている間に、いつの間にか逃げられている。友だちによると、失恋すると、「ひどい」とか「寂しい」とか「私のどこが悪かったのかしら」と、夜な夜な枕を涙で濡らしたり、彼のことを思い出しては反省したりするらしいのだが、私は、 「変ねえ……」  と首をかしげるだけなのだ。電話をかけてきた友だちに、 「もしかして、ふられたのかしら」  と話したら、 「ばっかねえ。あんた今ごろ、呑気にそんなこといってるの」  と呆れられたくらいなのだ。  その友だちは、自分のことを気にいってくれた男性がいたら、よっぽどのことがない限り、お付き合いするのだそうだ。たくさんの異性がいるのに、そのなかで自分に目をとめてくれたというのは、やはり何か縁があるとしか思えない。だからお付き合いするというのである。人間ができている人は違うと感心した。盛り場を歩いていると、たくさんの人とすれちがう。言葉も交わさないし、二度と会う可能性がない人たちでもある。これだけ通り過ぎていく人が多いのに、そんななかで知り合ってお付き合いするのは、相当の確率であるのは間違いない。男女の出会いは偶然なのか、必然なのかはわからないが、やはり出会うべくして出会うのではないだろうか。きっと私の友だちは、絶対に何かがあると、前向きに考えてお付き合いを始めるのだろう。私はそんな彼女を偉いなあと思う。彼女は今まで幸せいっぱいだったわけではない。何度も男性とトラブルを起こしている。あるときは男性二人に夜の公園に呼び出され、どっちを選ぶのかと詰め寄られたあげく、迷っているうちにビンタをくらわされたこともある。 「そのあと、三日三晩、泣いたわよ」  彼女はそういった。私はそんなことしたこともないし、されたこともない。すったもんだの修羅場もなく、ののしりあいの喧嘩もなく、ただ相手の男性は静かに私のもとから去っていった。いくらアンテナが頭の上に立っていない私でも、 「ちょっと、変かな」  と彼の行動や言動から感じたりすることはあったが、別に問い詰めたりはしない。電話をかけてつっけんどんにされるのも、電話がかかってこないのも、彼がいうとおり忙しいからなのねと思い続けた半年後、やっと私は彼が逃げていったことを知るのである。一応は、 「どうしたのかな」  と考える。だけどだんだん面倒くさくなってきて、結局は本の一ページでも読んだほうがいいやというふうになっていくのだ。彼は私が嫌になって逃げていったのはまぎれもない現実である。だから今はその現実だけを受けとめて、また明日から一人で生きていこうと思う。相手には、 「逃げたきゃ、逃げればいいじゃない」  とつぶやくだけだ。 「あなたがそんなふうに思っているから、相手も嫌になるんじゃないの」  そういわれたこともある。一理あるが、相手が逃げた今、そんなことをあれこれ考えたって何になると、居直っているのも事実なのである。  つまり私には、可愛気というものが欠如しているのである。CMの女の子みたいに、 「ねえ、チューしてよ」  と甘えるような女性には、やっぱり可愛気があるんじゃないだろうか。このCMを見て、 「いう女も女だが、そういわれてチューしてやる、唐沢寿明もなっとらん」  と激怒してしまった私には、あのような光景はまるで異次元のことのようだ。きっとああいう女の子が、別れたときに泣いたりするのだろう。  私は恋愛よりも失恋したときに、自分がいったいどうなるのかと怖がっているのかもしれない。好きで好きでたまらない男性と別れるとなったときに、いったい自分がどうなるか。ビンタの応酬で別れるか。それとも彼との別れ話のときには平静を装い、アパートのドアをばたんと閉めたとたんに、よよと泣き崩れて顔がぱんぱんにむくむまで泣き通すのか。次回、失恋するときは、ぼーっとしている間に逃げられたくないと思っているのであるが、これらの別れ方はどれもこれもヘヴィであるし、私のキャラクターには合わない。それを思うと、今までの別れ方は、相手が私に精一杯気をつかってくれたともいえなくもない。  そんな話を友だちとしていたら、彼女は失恋したときに、彼をいちばん手っ取り早く忘れる方法を教えてくれた。カラオケボックスにいって、沢田知可子の「会いたい」を百回歌うと、歌詞のとおり、相手が死んだ気になって忘れられるというのだ。私はこの話を聞いて大喜びした。私のキャラクターにもぴったり。これさえあれば失恋なんか怖くないと、私は意を強くしたのであった。 [#改ページ]    トイレと若さの微妙な関係  半年ほど前、年齢もさまざまな男女八人で、そのなかの一人が持っている別荘に行った。とにかく「別荘」と聞いただけで、リッチな気分になって口元がゆるんでしまった私は、渋滞にひっかかって到着するのに五時間かかったのにもかかわらず、なんだか胸がわくわくしていた。別荘といっても、その家は別荘地に建っているわけではなく、ふつうの建て売り住宅である。しかし空気がきれいで、何よりも水がおいしい。まるで水道の蛇口から、湧き水が湧いているのではないかと思うくらいなのだ。広い4LDKで八人でもゆったり泊まれる。スーパーマーケットもすぐそばにある。別荘地ではないから、妙なみやげもの屋もない。 「いいねえ、いいねえ」  とみんなで喜んでいた。しかしそれも束の間、あることが発覚してから、二十七歳の女性がパニックに陥ったのである。  彼女はトイレに行って帰ってくると、顔がこわばっていた。 「どうしたの」  と聞いたらば、 「ここのトイレ、汲み取りなんですよ」  と暗い声でいう。 「ああ、そうね。なつかしいわよね」  といったが、何の反応もない。相変わらず顔がこわばったままなのだ。そしてしばし沈黙が流れたあと、 「あんなトイレじゃ、私、できません!」  と彼女はきっぱりいい切ったのである。 「私は平気だけどね」 「えーっ、そうですか。他の人はどうなのかなあ」  彼女は同行した二十三歳の女性と妊娠八カ月の女性に、「汲み取り便所は平気か否か」を聞いてまわっていた。 「私は大丈夫です。アウトドアで慣れてるし。野原でだってできますよ」  二十三歳の女性は事もなげにいった。 「うーん」  仲間になれると思った若い女性にそういわれて、次に彼女は妊婦に期待をかけた。すると妊婦は、 「妊娠してて便秘気味だから、どっちでも大したかわりはないんだけどね。でも水洗のほうが安心して力めるわよね。汲み取りだと、力んだついでに子供まで出てきちゃったらまずいじゃない。ま、そうなったら落ちないように、股ぐらに挟んじゃえばいいんだけどさ」  妊婦はトイレの種類など、ほとんどどうでもいい状態なのであった。 「やだー、あんなトイレ」  彼女は心底、嫌がっていた。子供のころから水洗トイレで育ったものだから、汲み取り式のトイレを使ったことがない。こんなに広くて立派な家なのに、トイレが汲み取り式なんて、信じられないとぶうぶう文句をいう。たとえばそんな文句をいう女性が、見るからにデリケートでひ弱なタイプならまだわかる。しかし彼女はひ弱なタイプではない。どちらかというと豪快な性格である。高級レストランで食事中に、「スケベニンゲン」と「キンタマーニ」という地名を、 「こんなに面白い名前があるんだよ」  と大声で連呼したという剛の者でもある。そんな彼女が、たかが穴がぼっかりと開いているだけの、汲み取り式を嫌がるなんて、想像すらできなかった。みんなが嫌がっても彼女だけは、 「あーら、あたしこんなのへっちゃらよ」  といいながら、天を仰いで笑いながら用を足すタイプだと思っていたのである。  かつて私の家のトイレも汲み取り式だった。うちだけではなく、ほとんどの家がそうだった。大雨が降ると、母から、 「下手をするとおつりがくるから、気をつけるように」  とお達しがあり、私は競馬の騎手のような格好で用を足した。学校で友だちがこそこそと寄ってきて、 「トイレにはおばけがいるんだ」  と深刻な顔をしていったこともある。そのおばけは、子供がしゃがんでいると壺のなかから手を出して、なかに引きずり込むのだそうだ。そうするとその子供は、どうわめいても外に出られず、一生を壺のなかで過ごさなければならないというのであった。 「どうしよう」  彼女はおびえていた。私は、 「そんなの嘘だよ」  といいながらも、もしかしたらあの暗い壺のなかには、髪の毛を振り乱したおばけがひそんでいるかもしれないと思ったりもした。 「平気、平気」  と友だちにはいいながらも、私も怖くて仕方がなかった。入る前に何かいないかと、壺の中をのぞき込んで、落ちそうになったことなど、一度や二度ではない。あの暗い壺のなかには、絶対に何かいそうな雰囲気が漂っていたのは事実である。  そんなトイレを使ったことがない彼女が、緊張してしまうのも無理はない。女性にとって排便はデリケートな作業だから、精神的な部分が影響する。きっと彼女がトイレのドアを開けて、ぼっかりとあいた穴を見てぎょっとしたとたん、肛門もきゅっと閉じたのに違いない。別荘に滞在している間、彼女は事あるごとに、 「ああ、出ない……」  とつぶやいては、お腹をさすっていた。出ないからいまひとつ食欲もわかず、重苦しい感じがするという。 「気にしなくていいからさ、思いきってやっちゃえば」 「そう思ってるんですけど、肛門が開かないんです」  彼女は辛そうにいった。そしてあまりに我慢できなくなったので、別荘の持ち主に、水洗トイレのある場所まで、連れていってくれとたのんだ。彼はあきれ顔で、 「何だ、それくらいのことで便秘になってどうする」  といったものの、いちおう女性が辛い思いをしているということもあり、一同がドライブに行くついでに、彼女の求める水洗トイレを探すことになった。ところがその地域一帯は、まだ下水が完備しておらず、喫茶店にいっても汲み取り式なのである。 「ここなら大丈夫そうね」  外観がお洒落な喫茶店のトイレに、にこにこ笑いながら入っていった彼女が、暗い顔で戻ってきたのを何度目撃したことか。観光地でない分、静かでのんびりできるいい場所なのだが、水洗設備だけはいまひとつ普及していないのであった。  ふだんは元気よく喋る彼女なのだが、時折、眉間にしわを寄せて黙っている。それは便意を催したサインであった。湖にボートを乗りにいこうと、山道を下っているときに、彼女はそういう状態になった。 「たしか山の上の茶店の奥に、トイレがあったよ」  と教えると、彼女は無言で駆け出していった。いくら肛門が開かなくても、体内からの力が勝れば、おのずと門は開くはずである。 「どうだったかしらねえ」  心配していると彼女は、 「わーん」  と半泣きで戻ってきた。 「今まででいちばんひどかった……」  そこももちろん汲み取り式だったのだが、恐ろしいことに壺の中身が円錐形に堆積し、先っぽのとんがり部分が、便器すれすれの高さにまで及んでいたというのだ。 「だからいっただろう。このへんはみんな便所はそうなんだ。どうしてそんなことを気にするんだ」  女性のデリケートな気持ちが理解できない男性陣は、半分あきれていた。 「あー、苦しいよお」  彼女の辛さはとてもよくわかる。しかしそれは本人ですら、どうしようもできない体の不思議なのである。とにかくこういう状態のときは、ただ成り行きにまかせ、肛門さまが開いてくれるまで、じっと耐えるしかない。下手に排便を促そうとして、寝た子を起こすと、体内で大嵐が起こり、腹が爆発しそうな、とんでもない状態になるからである。  若いころは私もそういうふうになるときがあった。修学旅行で便秘、友だちとの旅行で便秘。とにかく自分の家のトイレでないと用が足せない。外泊するのが一日、二日ならまだいいが、それが一週間近くになると、御飯をそれほど食べていないのに、体内から腹がいっぱいになり、不毛な満腹感を味わうはめになった。自然の摂理で体内の余分なものは排出しようとする。小腸、大腸もがんばって蠕動《ぜんどう》している。しかしただ一カ所、肛門だけが堅く閉じて開いてくれない。それも腹がいっぱいになればなるほど、ますます堅く閉じてしまうのだった。  ところが最近、私は全くそんなことがなくなった。あれだけ環境が変わると、体に変化を起こしたのに、どこへ行こうと家にいるときと変わらないのだ。私は別荘周辺で水洗トイレを探し求めて、真っ青になっている彼女の姿を見ながら、歳をとった自分に気がついた。だいたい友だちの家に泊まりにいったって、大便なんか恥ずかしくてできなかったのだ。臭いなんか漂わせたら、もう二度と泊まりになんかいけないとすら思った。  それが今では平気の平左である。切羽つまっていれば、デパートだろうが、駅だろうが、友だちの家だろうがどこでだってできる。洋式、和式、水洗、汲み取り式も選ばない。とにかく体内の余分な物を排出するのに専念するだけで、周囲のことなど何も考えなくなったからだ。  まだ彼女のようにデリケートな神経を持っていたころ、私はデパートのトイレで、隣の個室で用を足している、おばさんが発する高らかな音を聞きながら、 「何て恥じらいがないのだろう。絶対にああはなりたくないもんだ」  と同性ながらむかついた覚えがある。いくら人間の生理現象とはいいながら、あんなにあからさまにすることはないだろうと、呆れかえっていたのであるが、今の私はだんだんそんなおばさんに近づいている。他人がどう思おうが、遠慮なんかしていられない。そんなことをしていたら、自分の体が悪くなるに決まっている。恥じらいをとるか自分の体調をとるか。若いころは恥じらいだったが、今はもちろん自分の体調である。どうせ隣の個室に入っている人なんか、私の人生で二度と会わないに決まってるんだから、どう思われようとかまわないのである。  知らないところで、 「今日、デパートのトイレに恥知らずの女の人がいたのよ。よく平気であんなことができるわよね」  といわれる可能性があったって気にしない。私の耳に入ってこなければ、もうどうだっていいんである。図々しさのおかげで、快便を続けているのであるが、これが年齢による図々しさだとわかって、私は愕然とした。彼女と同じ年頃の私だったら、男性と同じ屋根の下で、ひとつのトイレを使うと聞いただけで、肛門がちぢこまってしまい、便秘の日々になったと思う。しかし三十七歳の今は、 「あー、なつかしい汲み取り式トイレ」  と感慨を抱きながら、平気で用を足せる。ああ、あんなに純情だったのに、汚れてしまった私。  東京に戻ってきて、ついに旅行の間中、便秘だった彼女に電話をかけた。 「家に帰ったとたん、嘘みたいにぜーんぶ出てすっきりしました」  彼女は明るい声でそういった。ああ、若いっていうことは、面倒くさいところもあるけれど、いいなあと私はつくづく思ったのだった。 [#改ページ]    スケバンのスカート  近頃、また、長いタイトスカートがはやっているらしい。体にぴったり沿い、歩きやすいように深くスリットが入っていたりして、女らしい。しかし私は、あの長いタイトスカートを見ると、お洒落というよりも、スケバンを思い出してしまうのだ。  私が高校に入学したころから、ちらほらと校内にスケバンの姿をみかけるようになった。彼女たちにははっきり外見で区別できる特徴があった。まず、髪の毛を茶色に染めている。上履きのスニーカーでも革靴でも、かかとを潰したスリッパ状態ではいている。制服着用が校則で決まっているスケバンは、プリーツスカートをひきずらんばかりにしていたし、制服を着なくてもいい学校のスケバンは、長いタイトスカートをはいていた。くっちゃんくっちゃんとガムを噛みながら校内を歩き、そして風邪もひいていないのに、いつもマスクをしていたのである。  授業中に先生に叱られると、休み時間にスケバンやその手下が集まって、 「あの野郎、覚えとけよ」  とぶうぶういっていたり、下校途中に気にくわない他校の学生をつかまえては、小遣いを脅し取っているという噂も聞いたが、私たちにはそんなことはしなかったので、別にこわいとも思わなかった。いくらスケバン軍団とはいえ、同じ学校の彼女たちは、まだまだかわいいものだったけれど、他の学校の筋金入りのスケバンの風体の女の子たちは、やっぱり恐ろしかった。歳がほとんど違わないのが信じられないくらい、彼女たちは老けていて、すでに子供が二、三人いるように見える子もいた。  とにかくいいがかりをつけられたら困るので、私は登下校途中にすれちがっても、彼女たちのほうは見ないようにしていた。高校を卒業したとき、私は、もうこれでスケバンを気にしなくてもいいのだと、ほっとした覚えがあるのだ。  大学一年の冬休み、私は近所の大手スーパーマーケットの写真関係の売り場で、アルバイトをした。仕事は写真の現像の受付である。そこにはものすごーく暗い、まるで亡霊のような二十四歳の社員の女の人がいた。ばっさばさの手入れの悪い髪を長くのばし、顔色も青黒くて、思わず、 「だ、だいじょうぶですか」  といいたくなるような人だった。面接に行くと彼女は煙草をふかしながら、 「仕事、すっごーく、つまんないよ」  といった。 「はあ、それでもいいです」  少しでもお小遣いが欲しい私は、多少の時給の安さには目をつぶっていた。仕事がつまらなくても別によかった。とにかく冬休みの間に、万単位のお小遣いが欲しかったのである。 「なんだかんだって文句ばっかしいって、金を返せっていう客もいるよ」 「はあ、そうですか」 「万引きする奴もいるんだ」 「はあ、そうですか」 「あーあ……」 「………」  とにかく彼女は、ものすごく自分に与えられた仕事を嫌がっていた。現像を頼みにきた人も、彼女が暗い顔でざんばら髪をかきあげながら、面倒くさそうに、 「表面はつるつるですか、それとも絹目ですかあ」  というと、みんなおびえてのけぞるくらいなのだった。  彼女の上司として、その売り場には二十七歳の既婚の男性がいた。彼女とはうってかわって明るくて、目のくりくりした、魚屋さんのおにいちゃんみたいな元気のいい人だった。私の顔を見て、 「時給も安いし、面白くない仕事で悪いね。ま、よろしくお願いしますよ」  彼はそういって、あわただしく出かけていった。亡霊の話によると、この売り場はスーパーマーケットの直営ではなく、テナントの経営だった。そして彼はその地域一帯の、店の統括をしているのだった。 「年末から春先まで、結構、フィルムとかカメラが売れるのよ。だから、ここんとこ、ちょっと忙しいの」 「はあ、そうですか」  けだるい亡霊の話を、私ははあはあと聞いていた。 「明日、また新しいバイトの子がくるよ。高校二年っていったかな。年下だから気にすることないよ」  そういって亡霊は音もなく去っていった。私は同年輩の女の子がきて、これで亡霊と顔をつきあわせなくてもすむと、ちょっと、ほっとしたのだった。  翌日、売り場にいくと、何となく妙な雰囲気が漂っている。 「この人たち、きのう話した新しいバイトの人」  そういわれて亡霊の傍らをみると、何とそこには絵に描いたようなスケバンが二人、マスクをして長いタイトスカートのポケットに手をつっこんで、肩をいからせているではないか。彼女たちは下からすくい上げるような目つきをして、 「うっす」  と挨拶をした。私はいちおう、 「よろしくお願いします」  といったけれど、腹のなかは、 (どっひゃー)  だった。こんな子たちを採用するなんて、よっぽど人手不足らしい。やっとどよーんとした亡霊から解放されると思ったのに、新しくやってきた同僚はスケバン。それも高校にいたような、かわいいスケバンではなくて、筋金入りである。髪は金髪。マスクを取ると口紅は赤紫色。もちろん長いタイトスカートに、かかとをつぶした革靴。  これから私は、亡霊とスケバンに挟まれて、どうやって日々を過ごしていったらいいのか、本当にため息しかでてこなかったのである。  私が気を揉んでいるというのに、全く仕事をする意欲のない亡霊は、スケバンたちには、 「仕事のやり方は、この人に聞いて」  と私を指さし、ふらふらと売り場を離れていった。  頭のなかには、スケバンとどう接していいかということしかなかった。しばしお互い見合っていたものの、私は相手がスケバンだと思うから怖いだけで、ふつうの年下の女の子がきたと思えばいいんだと、自分自身にいいきかせた。仕事のやり方を教えると、いちおう彼女たちは、 「うっす、うっす」  と返事をしながらうなずいていた。現像の受付カウンターのなかにいると、アルバイトだか社員だかわからない。ましてや化粧をばっちりして、毛まで染めているスケバンのほうが、私よりもずっと大人に見えるので、お客さんはスケバンのところに行き、 「これ、お願いします」  とカメラやフィルムを差し出したりする。するといくらスケバンといえども、慣れないことにはうろたえる。すると私のところにきて、 「うっす」  とドスのきいた声でいうのだ。 「はい、はい」  私もスケバンの機嫌を損ねるのは嫌なので、彼女のかわりに仕事をやってあげる。そうするとお客さんが帰ったあとに、 「うっす」  といいながら、ぺこりと頭を下げる。何でもかんでも、「うっす」ですませてしまう、ボキャブラリーのなさにびっくりしつつ、スケバンと揉めることなく、私は一日を終えたのである。  その翌日、亡霊が、 「三人で休憩に行っていいよ」  といった。珍しいなあと思っていると、売り場の上司がやってくるのが見えた。 「さ、はやく、はやく。いいから休憩してきてよん」  亡霊は暗いなりにはしゃいでいた。  私たちは追いたてられるように、上の階にある喫茶店にいき、ホットケーキ・セットを注文した。スケバン二人は、くすくす笑いながら煙草を吸いはじめた。下手に口をはさんで、 「うるせえな」  といわれると困るので、黙って彼女たちを見ていたら、 「なんか、変じゃないすか」  とスケバンがいった。 「何が」 「あの女、あいつのことが好きなんで、私らのことをおっぱらったんですよ」  二人は親指を立てた。 「ああ、そうか」  私が感心していると、 「だめっすよ。ぴんとこなきゃ」  とスケバンに怒られてしまった。しばらくホットケーキを食べ、ぐだぐだしていると、店が混んできたから、戻ってきてと亡霊が呼びに来た。私はスケバンを先に行かせて、お金を払ってから売り場に戻った。彼女たちは、 「うっす。ごちそうさんです!」  とぺこりと頭を下げた。別に空手もやっていないのに、「空手道」という言葉がぴったりしそうな態度であった。そしてホットケーキ・セットをおごってもらったことで、心がなごんだのか、彼女たちはそれ以来、私のことを「先輩、先輩」と呼んで、なついてくるようになってしまったのだった。  彼との仲がうまくいっていないのか、亡霊がヒステリーを起こして、理由もなく私を叱ることがあった。亡霊がいなくなるとスケバンたちがやってきて、 「あったま来るなあ、あいつ」 「どうして、先輩を怒るんすか」 「いっちょ、ヤキをいれてやりますか」  などといいだす。 「ひえーっ、そんなことはやめて」  そういっても、彼女たちは舌打ちしながら、 「許せないっすよ。いいじゃないすか、一発や二発くらい。それとも根性焼きをしたろか」  と真顔で話していた。 「頼むからやめて」  といって、やっと彼女たちに納得してもらったこともあった。  アルバイトをやめる当日、スケバン二人と休憩をすることになった。また亡霊におっぱらわれたからである。 「先輩、大学って面白いすか」  スケバンは聞いた。 「半分、半分かなあ」 「あたしらは頭も悪いし、こんなだから高校を卒業するのが、精いっぱいっす。だから卒業したら就職します」 「いいじゃないの、それで」 「そうすか……。親は短大くらい行ってくれっていうんすけど、なんせ頭が悪いもんで。先公にも嫌われてるし」  スケバンはでへへと笑って頭をかいた。  私が彼女たちと一緒にいた二週間、スケバンたちは毎日、長いタイトスカートをはいてきていた。色や形は違うけれどはいてきた靴は、みんなかかとがはきつぶされて、スリッパ状態になっていた。ミニスカートが全盛のときは忘れていたが、長いタイトスカートを見たとたん、あのスケバンたちのことを思い出した。  今では彼女たちも、三十五、六歳。きっと結婚してお母さんになっていることだろう。巷ではあの長いタイトスカートは、セクシーでエレガントといわれているようだが、私にとってはやっぱり、 「いっちょ、ヤキをいれてやりますか」  という言葉と共に頭に浮かぶ、スケバンのはくスカートなのである。 [#改ページ]    母にとりつく病  私の母は昭和ひとけた生まれで、「もったいない」が口癖である。何でもかんでも、もったいないを連発する。物を大切にするのは立派な心がけだが、時と場合によっては、あんまりだと思うことも多いのだ。  まだ私が学生のころだから、今から二十年ほど前、近所に二人の男の子を持った、お医者さんの奥さんがいた。留学経験もある人で、色白で美しく、 「ちょっと、そこまで」  という買い物が、いつもベンツでだったのが、近所の評判になっていた。たまたまうちの母が彼女に編み物を教えていたので、知り合ったのだが、奥さんは、 「お嬢さんがいらしていいわねえ」  といっていた。彼女は結婚したときから、将来は女の子を産んで、いっぱい服を買って着せ替え人形みたいにしたかった。しかし生まれたのは男の子で、心底、がっかりしたのだそうだ。母が私と歩いていると、いつも彼女はうらやましそうにしていた覚えがある。  あるとき私は、彼女から誕生日のプレゼントをもらった。 「一度でいいから自分に女の子がいるつもりで、着る物を選んでみたかったの。寝巻なんですけれど、気にいっていただけるとうれしいわ」  私は家に帰って箱を開けてみた。まっさきにとびこんできたのは、豪華な真っ白いレースだった。そこには大きなピンク色のリボンがついている。 「げげっ」  嫌な予感がして、箱から中身を出してみると、頭がくらくらした。何とそれは薄いクリーム色の、透け透けのネグリジェだったのである。フランス製で生地も仕立てもよく、間違いなく高価なものだったが、明らかに私の趣味ではなかった。今でもそうだが、私は豪華なレースとかリボンのついた服は苦手だし、全く似合わない。当時はジーンズばかりはいていたこともあり、そういうひらひらした女っぽいものに、より嫌悪感を持っていたのである。それを見た母は、 「あらー」  といったきり、しばし絶句していたものの、 「もったいないから着てみたら」  といった。そういわれてしぶしぶ私は、Tシャツの上からネグリジェを着てみた。まるで肩が落ちそうなくらい、衿ぐりが大きくあいていて、そこにレースが二重、三重についていて、中央にはピンクのリボンだ。そして透ける身頃は、ギャザーの三段切り替えになっていて、そこにもこれでもかというくらいに、レースとリボンがあしらってあった。 「あらー」  再び母は絶句した。段々ギャザーの透け透けネグリジェを着た私は、まるで松ぼっくりみたいだったからである。 「女の子だったら、みんなこういうのが好きだと思ってるのね。娘さんがいないからしょうがないんだけど、これはちょっと、違うわねえ」  母はネグリジェのタグを、もう一度確認しながら、 「フランス製なんだけどねえ。これじゃあねえ」  と何度も繰り返しながら、暗い顔をしていた。私に似合うというよりも、医者の奥さんが、そういったふりふり趣味の人だったのだろうけれど、こんな透け透けのネグリジェなんか、こっぱずかしくて着られない。いちおう奥さんにはお礼をいったものの、押し入れの引き出しの奥深くしまいこんでいた。しかし母は、 「もったいない、もったいない」  という。あんなに私には似合わないし、趣味ではないとわかっていながら、 「もったいない」  を連発したのである。  昭和ひとけた生まれの母は、「もったいない」と共に歩み続けて六十年、といったような人である。娘に似合わないのは重々わかっていながら、放っておいてあるネグリジェを思うと、「もったいない」は体の奥からじわじわとわきでてくるみたいなのだ。 「どうせ外に着て出ていくわけじゃないんだから、着たら?」  遠慮がちに母はいった。 「やだ」  つっぱねると彼女は、 「それはわかるけど、もったいないわよ」  と、自分の部屋に持っていった。そして、 「私が着ようかしら」  といって試着したが、彼女の姿にはすさまじいものがあった。それ以来、そのネグリジェを見ていないが、きっとまだ捨てずに持っていると思う。とにかく決定的なダメージを受けている物でない限り、絶対に彼女は物を捨てないからである。 「もったいない」がまず頭に浮かぶこの年代の女性は、「もったいない」を押し通すあまり、とんでもないことをしでかす。私は実家から独立したときに、文机《ふづくえ》を買った。分不相応なものだったが、これだったらずっと使えると思って買ったのだ。しかしそれで原稿を書いていたら、だんだん姿勢が悪くなってきた。そこで普通の机をあらためて買い、文机はそのまま部屋の隅に置いておいた。それを「もったいない」病の母が見逃すわけがない。 「使っていないんだったら、ちょうだい。このままじゃもったいない。この上で手紙を書いたりするから」  と、もう机をなでさすっている。 「いいけどさ、もう家に置く場所なんかないじゃない」  たしかに実家にも、家具を置くスペースはなかったはずである。そういったのにもかかわらず、彼女は、 「大丈夫、かたづければ置けるから」  と何度も何度もいう。そんなにしつこくいうならばと、私も文机を手放す決心をしたのである。  それから何カ月か後、実家に帰った。文机はどこに置いたのかと見渡しても、どこにも姿はない。おかしいなと思いつつ、ふっと居間にあるタンスに目をやったら、何とその上に文机がのっけられているではないか。 「ほーら、だからいったじゃない」  大丈夫といった手前、うしろめたい母は、 「うーん」  といいながら、ぐずぐずしていた。そしてひとこと、 「だって、置くところはないけど、もったいないんだもん」  といい放ったのである。  彼女は「もったいない」がすべての免罪符になると思っている。しかしそれがとんでもない事態を引き起こしていることを本人は気づいていない。あるとき、 「これからずっと着物を着ようと思ってるの。だから髪の毛を伸ばして、シニョンにしようと思うんだけど」  と相談された。いちおう母も女であるから、あれこれ自分のお洒落について、考えることもあるらしい。私は、 「いいんじゃない」  といった。この年代の人の扱いはとても難しい。自分の身を飾ることに対して、興味はある反面、妙に遠慮がある。そんなことにお金を遣って、もったいないと考えているようだ。それじゃ、お金を何に遣ってるんだというと、たいしたものには遣っていない。通販のただの場所ふさぎでしかない、大型室内布団干しとか、買ったおかげでますます部屋が狭くなる収納家具とか、ろくなものを買っていないのだ。それならば、歳もとってきたことだし、すこしでも薄汚くならないように、身ぎれいにしたらいいと思うのに、そういうことには抵抗がある。自分の身の回りのことは、自分の手でできる範囲でやりたい。それ以上のことには必ず、「もったいない」がついてまわるのである。  ついこの間、久しぶりに私は母と会った。ある場所で待ち合わせたのだが、その姿を見て私は、あわててその場から立ち去りたくなってしまった。髪の形は母がしたいといっていたシニョンという、ひとまとめにして結い上げた、いわゆるおだんごヘアなのだが、着ている服一式が、すべて私が、高校、大学のときに着ていたものばかりだったのである。シャツはブルーの地に白い細かいチェック。これは高校一年のときに、私が縫ったものの、あまりにひどい出来だったので、見るのも嫌で押し入れにつっこんでいたものだ。下半身は大学の三、四年のときに愛用していた、ストレートのジーンズ。もちろん嫌になるほどはいたから、膝のあたりは白っぽくなっている。そしてお揃いのジーンズのジャケットも、私が大学のときに飽きるほど着ていたものだった。たとえばそれを、若いぴちぴちした女の子が着ているのならまだしも、六十歳をすぎた初老の女性が着ている姿を想像してほしい。おまけに髪形は着物をいつも着たいからといって、ふだんしているシニョンである。ミス・マッチすぎるミス・マッチに私は愕然とし、思わず知らんぷりをしようとしたくらいであった。 「何、それ」  あまりの姿に私は、ぶっきらぼうにいった。母は自分の着ているものをひととおり眺めたあと、 「まだ、着られるよ」  といった。 「それはわかるけど、その髪形にその格好はあんまりだ」  と説教をすると、彼女は憮然としながらも、 「だって、もったいないじゃない」  といい放った。母の「もったいない攻撃」にあうと、こちらとしては黙るしかない。実家にも押し入れには山のような荷物がためこんである。それも端切れとか、もう着なくなった服とかばかりである。それをいったいどうするのか、と聞くと、リフォームするという。しかし現実にはそんな気配はなく、着られそうなものをそのまんま着ている。だから仰天するようなスタイルで現れるのである。  私としては「もったいない」だけで、お洒落もせずに、私のお古を着ている母がふびんでならない。若いときは何でもいいけれど、ある年齢に達したら、お洒落はしたほうがいいと思う。このごろは私がああだこうだとうるさくいったために、髪も短く切ってすっきりしたし、とんでもない格好もしなくなった。買い物に行くときも連れていって、似合うものがあればプレゼントしたりしているのだが、 「あれが、いい」  と指さすので、近寄ってみるとアルマーニやクリツィアのスーツだったりするので、こっちの心臓がどきどきする。だいたいが試着してみると似合わないので、ほっと胸をなでおろしているのであるが。少しはセンスを磨いてもらおうと、年配の女性向きの雑誌を見せたりすることもある。しかし彼女は、服やアクセサリーではなく、モデルの女優の顔を見て、 「あらー、この人、若いころはきれいだったのに、しわがすごいわねえ」  などといっている。そんなことよりも、見るべきものは他にたくさんあるだろう、といいたくなるが、全く彼女は気にしていない。 「おねえちゃんが学生のころに着ていた、薄手のたっぷりしたコートを縫い直したら、こういうワンピースができるわね」  などと、サンローランのワンピースを指さしながらいっている。リフォームもよい心がけではあるが、センスがない人がやっても無駄だと思う。しかし私のそういう気持ちも、母の頑固な「もったいない攻撃」には、どうしても勝てないのである。 [#改ページ]    虐待なのか愛なのか  ちかごろ動物の虐待が問題になっている。そのきっかけとなったのが、背中に矢が刺さったカモである。しまいには「矢ガモ」などという、珍妙な呼び名までつけられ、悲劇のカモであると同時に強運のカモでもあるということを、世間にアピールした。私もニュースを見て、矢が刺さっているのを見ては、 「いつまで生きられるのかしら」  などと心配し、レポーターが、 「ちょっと、弱ってきたような気がします」  といっているのを聞くと、心が痛んだ。しかしカモは比較的元気で、矢が刺さったまま空を飛んだりしていた。それを見て私は、 「本当に矢が刺さっているんだろうか」  と首をかしげたときもあったのだ。一見、刺さっているように見えるが、実は矢には精巧な仕掛けがあり、本当は刺さっていないのではないか。町の発明家やマジック研究家が、カモを相手に自分が開発した、「刺さっているように見えるけど、実は刺さっていない矢」をテストし、世の中の反応を見ていたのではないかとも考えた。しかしカモの胴体から矢の先が出ているのを見て初めて、そうではなく、本当に体を貫通しているのがわかった。それは、ころっと死んでしまったほうが、よかったかもしれないと思うくらい、痛々しい姿だった。  その後、やっと捕獲作戦が検討されるようになったとき、テレビのある深夜番組で、タレントが、 「あれは矢が刺さっているから、悲惨な感じがするので、いっそのこと、矢をネギそっくりに塗り替えたらどうか。そうすればカモがネギをしょっているみたいで、少しは悲惨さがうすれる」  というようなことをいった。私はあれだけカモがかわいそうだと思っていたのに、「矢をネギそっくりに塗る」という言葉を聞いたとたんに、 「わっはっは」  と大笑いしてしまった。しばらく笑ったあと、私を襲ったのは猛烈な自己嫌悪であった。 「あんなにカモがかわいそうだといっていたのに、矢をネギそっくりに塗り替えるという話を聞いて大笑いしたりして、いったいどういう奴なんだ。かわいそうだと思っているのなら、そんなギャグにも怒ればいいのに、笑うとは何事だ」  と自分自身を叱った。しかしその反面、 「うまいことをいうなあ。さすが関西の人はいうことが違う」  とそのタレントの発言に感心したりしたのである。  友だちに会うと、まずカモの話をした。みんながみんな、 「ひどいことするわねえ。信じられないわ」  と真顔で怒った。そしてそのあと、矢をネギそっくりに塗り替える話をすると、かわいそうにといった友だちが笑うのだ。ただ一人、 「どうやって塗るの」  とまじめに聞いてくる、ノリの悪いのがいたので、その人は放っておいたが、どの人も私と同じリアクションをとった。そしてそのあと、必ず、 「笑っちゃかわいそうだけど、何か、おかしいのよね」  という言葉がおまけにつくのであった。  その後も、カモのニュースが流されない日はなかった。これまでは怒りがこみあげていたのに、カモの姿を見ていると、「矢をネギそっくりに塗り替える」という言葉が浮かんできてならない。かわいそうなカモを笑ってはいけないと必死でこらえているのに、腹の底からはむくむくと笑いがこみあげてくる。そしてそのあとは、偽善者の自分にうんざりする。やっとカモが捕獲されて、無事に矢が抜かれたときは、ひと安心した。カモのためによかったというのももちろんだが、自分もこれで自己嫌悪に苛《さいな》まれなくてもすむと、ほっとしたのである。  私は今まで、鳥、猫、ハツカネズミ、モルモット、金魚、蛙など、さまざまな動物を飼ってきたが、彼らに虐待にあたる行為をしなかったかといえば、絶対にしなかったとはいいきれない。ずいぶん前のことになるが、『死んだ猫の101の利用法』という翻訳の絵本が出版されたことがある。文字通り、そこには死んだ猫を、花壇の柵、スリッパ、ボクシングのグローブなどに再利用する方法が、線描きのイラストで描いてあった。私は猫が好きだが、その本を見て大笑いしてしまった。 「本当に耳や前足の部分をこのように使えば、十分いけるかもしれない」  とうなずきながら読んでいた。ところが面白いからといって、弟に見せると、 「こんなことを考えるなんて、信じられない。ましてや見て笑うとは何だ」  と責められた。おまけに当時飼っていた猫たちにまで、 「おねえちゃんは、こういう冷たい人なんだよ」  などといいきかせていた。たしかに私は冷たい人間かもしれない。が、私よりも弟が優しい人間かというと、そうでもなかったのだ。  毎日、私は動物たちに、虐待まではいかないが、おせっかいな行為をしていた。おとなしく猫が寝ているのに、 「まあ、気持ちよさそうね」などといいながら、頭を撫でたりした。ハツカネズミに子供が生まれると、待ちきれなくて、ハツカネズミのお母さんに、 「ちょっと見せてちょうだいね」  と赤ん坊ネズミが寝ている、小さな紙箱の中をのぞいたりした。猫に紙袋を切って作った、フラダンスの腰みのをはかせたり、インコのピーコちゃんに着脱可能のかつらを作ったりした。これらを作ったのは私を冷たい人間といった弟である。腰みの、かつらを製作中の弟が、いつになく嬉々としていたのは事実なのである。  今から思えば、本当に動物たちにはかわいそうなことをした。もちろん、栄養のバランスを考えて餌をあげたり、ハツカネズミが風邪をひいたときも、必死に看病をして回復させた。なるべく話しかけたり体を撫でたりして、それなりにかわいがったつもりだが、それも、もしかしたら、彼らにとっては迷惑だったかもしれない。腹のなかでは、 「御飯をもらったり、頭を撫でてもらったりしても、あんなことをされちゃ、たまんないよな。プラスマイナス、ゼロだよ。他に行くところもないから、我慢しているだけさ」  と文句をいっていたかもしれない。それをこちらが、 「かわいがってやっている」  と思い込んでいる場合だってあるのだ。  たとえば動物に服を着せるのも、私はああいうことが好きじゃないから、実は動物は嫌がっているんじゃないかと危惧するけれど、服を着せている人に聞くと、 「服を着ないと風邪をひく」 「喜んで着ている」  とさまざまな意見が出る。人にもいろいろいるように、動物にもいろいろいる。犬にも服を着るのが好きなのもいれば、嫌いなのもいるのだろう。が、そうなると傍《はた》でとやかくいう問題ではない。動物と彼らの性格をいちばんよくわかっているはずの飼い主との間だけで、納得していればいいということになる。 「私の友だちってひどいんですよ」  あるとき、若い女性がいった。彼女の友だちは動物が好きで、今までにも捨て犬や捨て猫を拾ってきて、育てたことがあるという。友だちがひとり暮らしを始めたので、遊びにいくと子猫がいた。 「ごみ捨て場に捨てられていたの」  そういいながら友だちは、ミルクをやったり、じゃれつかせたり、かいがいしく世話をしている。その猫というのが黒くてまだまだ小さくて、みるからに弱々しい。動物好きの人に拾われてよかったなと思っていると、友だちが、 「面白いものを、見せてあげる」  という。何だろうかと楽しみにして見ていたら、友だちが突然、子猫をすくい上げて、ぐいぐいと口の中に押し込み始めた。そして口の中に子猫をいれたまま、目で笑ったというのである。あまりのことに仰天した彼女が、 「早く出して、早く出して」  と叫ぶと、ずるずると口の中から子猫をひきずりだした。彼女が心配して子猫の体をさすってみたが、毛が唾液で濡れて逆立っていたくらいで、ダメージはなかった。 「いつも、こうやって遊んでいるの」  友だちはケロッとしている。猫じゃらしやボールで遊んでやるのならばわかるが、口の中に押し込んで遊ぶなんて、猫にとっては傍《はた》迷惑この上ないのではないかと、彼女は怒った。 「そうかな。ミーだって喜んでるよ」  友だちは全然、気にしていない。おまけに子猫のほうも、そんなにひどいことをされているというのに、 「このお遊び、好きだよね」  などといわれると、ミャーと返事をして、友だちにすり寄っていったりしている。 「嫌だったら、こんなことされたら、逃げると思うんだよね」  友だちは彼女の見ている前で、また子猫を口の中に押し込んだ。すると子猫は嫌々というよりも、自ら進んで口の中に入っていくようにも見えたと、彼女はいうのである。 「いったい、どうなってるんでしょうか」  彼女からその話を聞いて、私も首をかしげた。まあ、子猫が大きくなれば、口にいれられなくなるから、このお遊びもそれまでのことなのだろうが、そんなことをする人なんて、聞いたことがなかった。 「子猫が嫌がってないのが、不憫なんですよ」  本当に友だちの口の中に入れてもらう遊びが好きなのか、それとも、逆らうと御飯がもらえないから、子猫なりにじっと耐えているのか、私たちにはわからなかった。ただ子猫が嫌がっているのを、無理やり口の中に入れたのではなかったのは、間違いない。動物に対しての虐待の感覚は、人それぞれで難しい。私も飼っていた動物に対して、明らかに虐待だったと反省した部分も多々ある。彼らに対して申し訳ない気持ちでいっぱいである。きっと嫌だったはずなのに、家を出ることもせず、死ぬまで私たちと一緒にいてくれたことを考えると、何ともいいようがない。  カモめがけて矢を放った人は、「ひどいことをする」と非難されている。きっとストレス解消のためにやったのだろうが、趣味でカモ撃ちをしている人はどうなのだろう。やはりストレス解消のためにやっているのではないか。私にしてみれば、両方とも同じことのように思える。だけど狩猟解禁のときにおおっぴらに撃たれるカモは同情されないし、見物人も来ない。殺され、傷つけられるカモに同情しつつも、私はカモ肉を喜んで食べるし、「矢をネギそっくりに塗り替える」というギャグに大笑いしてしまう。本当にカモがかわいそうだと思っていない証拠である。私の心の奥底には、もともと「カモなんだから、撃たれてもしょうがないんじゃないか」という気持ちがあるように思う。撃たれて死ぬのは当たり前。しかしあのカモは撃たれても生き続けていた。それがショックだったのだ。  私はただ自分の奥底にある残酷な本心を押し殺すために、「弱い立場のものに対して優しいんだ。優しい人間なんだ」と思い込みたいがために、カモのニュースを見ていたような気がするのである。 [#改ページ]    ブリのあら煮派宣言  先日、三十代なかばの男性と話していて、びっくりした。彼は食べ物のなかで、和風の煮物がいちばん嫌いだという。十代は別にして、二十代以上の男性はみーんな和風の煮物が好きだと私は思っていた。それさえきちんと作ることができれば、男性は料理に関して文句をいわない。浮気もしない。煮物がちゃんとできれば、男性は無条件に大喜びすると、決めつけていたからである。 「だからうちの奥さんは楽だっていってるよ。子供と同じ、ハンバーグとかスパゲッティを作っていればいいんだからさ」  彼はそういって笑った。子供が生まれると、お父さんの食事は一変して、お子様風になるときいたことがある。お母さんだって、料理を子供用とお父さん用と、二種類作るのは大変だから、ついついお父さんは我慢させられる。仕事から疲れて帰ってきたというのに、まっかっかのケチャップ味のスパゲッティを食べさせられるのは、気の毒だと同情していたのだが、そういうほうがありがたいという彼の言葉は、男性の味覚に対して固定観念を持っていた私には衝撃だった。私は料理は下手だが、和風の煮物さえクリアすれば、これから男性をおびきよせることもできるんじゃないかとふんでいた。しかしこういう人がいるとなると、私の計画も変更せざるをえないかもしれないのである。  彼の味覚が子供のころから、どのように発達してきたかはさだかではないが、今まで食べたなかでいちばん嫌だったのが、「ブリのあら煮」だったという。 「あんなにおいしいものを、嫌だなんていったら、罰があたるよ」  ブリのあら煮には目がない私が文句をいうと、彼は、 「えーっ、あんなまずいもの、よく食えるなあ。もうあのときは、おれ死ぬかと思ったよ」  とまでいうのである。彼は高校生のときにガールフレンドの家に遊びにいった。彼女のお父さんは大工の棟梁で、わしわしと丼飯を山ほど食うのが男だと思っているタイプであった。娘のボーイフレンドである彼の、堂々とした体格を見たお父さんは喜び、 「飯を食っていけ」  と誘った。彼も断る理由がないので、一緒に食卓につくと、目の前に出されたのが、特大の器に山のように盛られたブリのあら煮だったのである。げっとのけぞったが好きな彼女の手前、嫌な顔をするわけにもいかない。お父さんはにこにこしながら、 「これ、うまいぞ」  とすすめる。そこで彼はほとんど死ぬ思いで、丼飯とブリのあら煮をかきこんだ。もたもたしていると喉につまるし、息をするとあら煮の妙なにおいがするので、ほとんど息をとめてろくに噛まず、お茶と御飯でどんどん胃の中に落としこみ、やっと丼を空にした。するとお父さんが、 「おお、たのもしいなあ。男はそれでなきゃいかん。どうだ、もう一杯」  と御飯をよそおうとする。 「いえ、もう十分いただきましたから」  彼がいくら辞退してもお父さんは、 「若いもんがだらしがない。丼飯の一杯や二杯、どうってことないだろう」  と御飯がてんこ盛りになった丼を、彼の前に置いた。おかずは相変わらず、ブリのあら煮だけである。これは彼にとって、拷問に等しいものだった。彼女のためにと、三杯の丼飯を喉の奥へ押し込んだのだが、家に帰ったとたんに熱を出し、三日間、寝込んだというのである。 「もう、絶対、ブリのあら煮はいや!」  彼は、心底、ブリのあら煮を憎んでいるようだった。私は御飯とブリのあら煮があれば、それで十分である。骨からいい味が出て、あんなにおいしいものはないし、あらの微妙に湾曲した部分にへばりついている魚肉を、お箸でこちょこちょかきだすのも楽しい。魚は骨があるから面倒くさいという人がいるが、骨があるからこそ、食べていて楽しいのである。骨が全部取り除いてあるお上品な魚の切り身を食べていても、面白くも何ともない。おいしくて骨から身をはがす遊びのある、ブリのあら煮などは、最高の食べ物なのだ。私がそう力説しても彼は納得しない。 「信じられない」  といって私に軽蔑のまなざしをむける。そして、 「日本にハンバーグや、スパゲッティや、ピザが入ってきて、本当によかった。昔ながらの日本の料理だけだったら、おれはもう、生きていないと思う」  と真顔になったのだった。  そうはいっても昭和三十年代のはじめに生まれた彼は、いわゆる典型的な日本人の味を、毎日食べた世代であるはずだ。パンよりも御飯、肉より魚、ケチャップよりもしょうゆ味。それなのになぜ、三十代なかばになった今、自分の年齢よりもはるかに幼い、お子様向き味覚になってしまったのか、理解できない。たしかに子供のころは、特別、煮物や鰯《いわし》の丸干しがおいしいとは思わず、それよりもたまご焼きや洋食に心を奪われる時期もあった。中学生のときに、クラスでいちばん最初にピザを食べた女の子がいて、彼女は得意気に、 「ピザって手で食べるのよ。チーズがこーんなに伸びるんだから」  と自慢した。私たちはその話を舌なめずりして聞き、自分も食べたときは、 「こんなにおいしいものがあったのか」  とうっとりした。しかしそれも十代、二十代をピークに、だんだん和食のほうに嗜好が移っていった。若いころは脂っこいものを好んでも、だんだんとさっぱり系のものが、体になじんでいくのではないのだろうか。 「おれは子供のときから、和食を食べていて、何か違う感じがしていたんだ。それがある日、ハンバーグとケチャップ味のスパゲッティを食べて、目からうろこが落ちたんだよ。おれの求めていたのは、これだったんだ、この味だったんだって。それ以来、ずーっとおれの味覚は変わらない」  彼はいばった。ブリのあら煮なんか、喜んで食っている奴のほうが、よっぽど変だぞという。人の味覚は、成長するものなのか、それとも幼いころから確固たるものがあって、一生、変化しないものなのか、私はわからない。でも自分の幼いころの話を聞くと、やはり洋食よりは和食のほうが好きだったようなのだ。  親戚が集まると必ず、私の三歳のときの話が出る。親戚中が伯父の家に集まった折り、食事の準備をしていた伯母たちが、台所に料理の置き場所がなくなったので、焼いた肉やソーセージが盛られた大皿と、牡蠣《かき》酢となまこ酢が入った大きな丼ふたつを、客間の座卓の上に置いておいた。台所仕事もひと段落して、一同が集まっている部屋に行ってみると、私の姿が見えない。あわてて家中を捜してみたら、客間の座卓の前で私が、ぬいぐるみのクマみたいに座っていた。ふと見ると、牡蠣酢となまこ酢が入っていた大きな丼が見事に両方とも空になっている。びっくりした母が抱き上げると、私はにたーっと満足そうに笑い、手足をばたばたさせながら、げっぷをし続けていたというのである。 「どうしたんだ、この子は」  親戚中が呆れかえるなか、私はきゃっきゃと、大喜びしていたらしい。全く肉やソーセージには手をつけず、牡蠣酢となまこ酢だけをたいらげたのだ。 「女の子だというのに、この歳であんなものを十何人分も食べるなんて、こりゃ、とんでもない大酒飲みになるぞ」  伯父たちにからかわれて、うちの両親も当惑した。だいたい牡蠣もなまこも、子供が喜んで食べるようなものではない。たとえば牡蠣のグラタンのように、食べやすいようにアレンジしてあるのなら別だが、牡蠣酢、なまこ酢なんていちばん子供が嫌がるような食べ物である。本当に大酒飲みになるんじゃないかと、両親は心配していたが、私は幸か不幸か下戸《げこ》である。が、相変わらず牡蠣もなまこも大好きである。それを考えると、子供のころの味覚は、そうそう変わりようがないのかなとも思ったりする。誰に食べろといわれたわけでもないのに、三歳の子供が前にある食べ物に目をとめた。それは肉でもなくソーセージでもなく、牡蠣やなまこだった。おそるおそる口にしたら、それがとてもおいしかった。やはりこれが生まれ持った嗜好がなせるものだと思うのである。  この話を煮物嫌いの彼にしたら、 「そんな妙な子供、あんたくらいだよ」  といわれた。彼はそのテのなま物も苦手で、 「牡蠣酢となまこ酢が、今まで食べたなかで、いちばんのゲテモノというのならわかるけど、三歳でそんなものが好きなのは、やっぱり変だ」  といい張る。そのうえ、 「人がゲテモノだと思っているものも、喜んでばくばく食べてるんだろう」  などと呆れかえった顔をされた。彼の三十数年の人生のなかで、いちばんのゲテモノは、かのブリのあら煮だったそうである。一方、私は羊の脳味噌である。それを聞いたとたん、彼は、「やっぱり」という顔をして、つつつと私のそばから離れ、 「もう、あっちにいってくれよ」  と心から嫌そうに、そして私が悪食の大家であるかのように罵ったのだ。別に私はレストランに行って、羊の脳味噌を注文したわけではない。仔牛のステーキを注文したら、たのみもしないのに、肉の上に載ってきたのを、食べただけである。厚さが約一センチ、直径が五百円玉くらいの大きさで、最初は何だかわからなかった。バターにしてはとけていないし、つついてみたが、柔らかくもなく堅くもなく、不思議な感触だった。ひと口食べてみると、ほろ苦い。あん肝をちょっとくどくしたような味だった。 「これは、何ですか」  と気取ったウエイターに聞くと、 「羊の脳味噌でございます」  とお辞儀をしながら、丁寧に答えた。一瞬、ひるんだが、これも経験だと思い、全部たいらげた。別においしくもなく、まずくもなく、一度食べたらもう一生食べなくても平気な味だった。 「だいたい、そんなものをたとえ五百円玉くらいの大きさでも、全部食べるなんて、おれには信じられない」  と彼はまたまたいった。私も負けじと、 「ブリのあら煮みたいなものを、ゲテモノだっていう、あなたのほうがずっとおかしいよ」  と反論しても、彼は、こちらの味覚のほうがおかしいといって譲らないのであった。  私は三十歳をすぎても、ケチャップ味が好きな人の気持ちはわからない。若い頃は肉類を食べ、歳をとるにつれて魚、野菜とさっぱりしたものを好むのは、自然ではないかと思う。しかし最近の奥さん向け雑誌の料理ページを見ると、やたらケチャップやマヨネーズを使った味のものが多くなっていて、和風の煮物の作り方を探すのはひと苦労である。私はケチャップ味が好きな彼を不思議な人だと思ったけれど、そういう人たちこそ、今や日本の味覚の中心になっているのかもしれない。私は年寄りになったとき、毎食、御飯、みそ汁、焼き魚、煮物を食べている姿を想像するが、きっとケチャップ味の魔力にとりつかれた人たちは、歳をとっても、まっかっかのスパゲッティをフォークで食べるのだろう。それも面白いような気もするけれど、将来、私が老人ホームに入居して、食堂の隣のテーブルにいる老人が、そんなものを食べていたら、やっぱり嫌だろうなと思うのである。 [#改ページ]    うぐいすもちができるまで  物忘れがどうして起こるのか、私には全くわからない。子供のころ、母親が縫い物をしているとき、鋏を手にしながら、 「鋏はどこにいったかしら」  と大騒ぎをしているのを見て、呆れかえったものだった。自分が手にしているとわかって、 「あははは」  と照れ笑いをしている母親にむかって、 「嫌だなあ。どうしてそんなことがわかんないの」  と嫌味をいった。ところが今の私は、それと同じようなことをやっているのだ。  あるとき、スクラップをするために、カッターが必要だったので、文房具がいれてある引き出しから出して、仕事机の上に置いておいた。電話がかかってきたり、原稿をFAXで送ったり、郵便物が届いたりして、小一時間がすぎた。そして、やっとスクラップをする段になり、 「ああ、そうだ」  と思い出してカッターを使おうと、いつも入れてある引き出しを捜したが、ない。もともと私はだらしがないので、物は出したら出したまんまでほったらかしにしておく。物が散らばり放題に散らばっているのを見て、 「嫌だな」  と感じたときに、まとめてしかるべき場所に戻す。使ったものを、すぐ元の場所に戻す習慣がないので、私は物がみつからないと、そこらじゅうを捜さなければならなくなるのだ。  そのときも私は部屋中を捜し回った。別の引き出しを開けまくり、本棚の前をうろうろした。 「二週間前、新聞を束ねたビニールひもを切るときに使ったけどなあ」  と首をかしげるばかりである。二週間前にしたことは覚えているのに、一時間前の記憶がない。あそこでもない、ここでもないと大捜しする。そしてそのあげく、 「あーあ」  とため息をついてふと仕事机の上に目をやり、ちゃんと置いてあるカッターを見て、 「おおっ」  とびっくりするのが常なのである。  紛失するのは、鋏になったりものさしになったり、辞書になったり、万年筆になったりとさまざまである。人の名前など何度忘れたか知れやしない。おっちょこちょいと物忘れのダブルパンチで、赤面する事件が限りなく起こるのだ。おそるおそる友だちに、そんな経験はないかと尋ねると、 「あーら、私だってあるわよ」  といわれてほっとする。なかには同い歳なのに、私よりもすごい物忘れの名人もいて、 「ああ、ここに友がいる」  とうれしくなることもあるのだ。  その人は夫と車で家中の窓につけるカーテンを買いにいった。彼は、 「ここで待っているから、好きなのを選んできたらいいよ」  といって店の前に停めた車のなかで待機し、彼女だけ店のなかに入っていった。その日はバーゲンだったこともあって、店内がものすごく混み合い、落ち着いてカーテンの柄も選べない。彼女もせっかくきたのだからと、最初は一点一点、柄を見ていたのだが、ぴんとくる物がない。そのうち疲れてきて気力も失せ、手ぶらで車に戻ることにした。  買う気ではりきってきたのに、頭に描いていたようなものがないとき、女性はがっくりする。ちょっと機嫌も悪くなる。彼女は待機していた車に乗り込み、 「あーあ、本当に嫌になっちゃうわ。ものすごく混んでてさあ。おまけにろくなものがないの」  とぶちまけた。ところが彼から何の反応もない。むこうもびっくりしているんだと思って、 「すごいおばさんがいて、私がその人の生地見本をのぞきこんだら、にらみつけられちゃって。横取りするなっていってるみたいなの」  と続けた。ところが車内はしーんとしたままである。彼女はちょっとおかしいなと気がつき、ふと運転席を見た。するとそこには見ず知らずの若者が、怯えた目をして座席に身を縮めていたのである。 「あら……」  といった彼女にむかって、彼は、 「あのー、違うと思うんですけど……」  と消え入るような声でいう。彼女もびっくりして、 「わっ、ごめんなさい」  といってあわてて車からとび出した。そして落ち着いてもう一度よくよく見たら、自分が乗るべき車は、三台先に停っていたというのである。 「あはは、車、間違えちゃった」  といった彼女に、彼は、 「もともと大ボケだとはわかっていたけど、こんなにすごいとは思わなかった」  と呆れかえり、 「みっともないから、誰にもこのことはいうな」  と口止めしたという。しかし彼女は、 「わはは」  と笑いながら私に電話してきて、 「あなた、記憶が欠落してるっていうけど、私ほどひどくないわよ。車の色は同じだけど、車種が違ったんだから」  というのだ。もし私が同じ立場になったら、同じようなことをしているはずだ。車に詳しければ別だが、同じような色で大きさも同じような車が目の前にあったら、どこに車を停めたかという確認もせず、手近な車のドアを開けてしまうだろう。ましてやちょっと頭に血がのぼっていたら、なおさらだ。私もつられて笑ったけれど、とても他人事とは思えないのである。  きっとこんなに物忘れが激しいのは、脳の働きが悪いからだと私は判断し、脳にいい食べ物が紹介されている本を買ってきた。根菜類、海草、大豆製品、魚などがいいとあったが、私はふだん、食事は和食一辺倒なので、今までの食生活からかけはなれてはいない。ワカメの味噌汁は毎日食べているが、それだけでは足りないようだ。それから私はとにかく、脳の働きを活性化するために、本に書いてある物を食べまくった。関西の人には嫌われるかもしれないが、朝食は毎回、納豆にした。すぐ影響される私は、 「うーむ、なんだか頭がすっきりしてきたようだ」  とその気になった。だけど実際には、人の名前をド忘れするのは変わらずで、頭を抱えていたのである。  ある日、私はスクラップ用のファイルを眺めていた。興味をひいた記事を、ただファイルにほうりこんでおき、気がついたときに見直して、いらない記事は捨てることにしている。そのなかで私の目を釘付けにしたのが、「昔の健脳食」の作り方であった。もちろん物忘れが激しいから、この記事を見たときも、自分がファイルしたのを忘れて、 「おおっ、こんなものがあった」  とびっくりしたのはいうまでもない。この健脳食というのが、黄な粉、玄米粉、そば粉、おぼろ昆布をある割合でまぜたものに、水を加えて練り、団子状に丸めて蒸したものである。見るからに、 「食べたら脳に効く」  という感じの、黒い炭団《たどん》のような代物であった。この健脳食の記事を読むと、これを噛むことにより脳の活性を促し、含まれているものも、みな脳にいいものばかりだという。たしかにその通りである。そこで私は近所の自然食品店にいって材料を買い求め、この健脳食作りにチャレンジしたのであった。  材料の色合いが、あまりきれいではないので作っていてもうれしくない。しかしできあがったものを食べて、物忘れをしなくなり、脳が活性化したら、こんなにうれしいことはない。私はボウルに粉類、おぼろ昆布を切ったものをいれて、水をいれてこねた。  正直いって、 「こんなものが、あたまにいいのかしら」  といいたくなった。くんくんと匂いをかいでみたが、昆布の匂いがつーんとする。 「ま、良薬は口に苦しっていうからな」  と自分自身を勇気づけながら、団子状に丸め、蒸し器にセットした。まるで外見は泥団子のようである。蒸し上がったら、それに黄な粉をまぶして食べる。一週間食べ続けると、脳の働きが違うのがわかるようになると記事には書いてあった。 「そうなったら、こっちのもんだわ」  私はうきうきしながら、蒸し上がるのを待っていた。蒸し上がった団子に黄な粉をまぶし、私はおそるおそるかぶりついた。ある人は、 「げーっ、まずい」  というかもしれないが、一時、玄米を食べていた私には、まずくはなかった。噛めば噛むほど味が出てきて、いかにも脳に効きそうな味わいであったが、かといって、おいしいわけでもなく、とにかく脳をなんとかしたいというだけで、私は食べていたのである。  健脳食を作った日は、三食とも、それを食べた。冷凍もきくというので、多めにつくり、ひとつずつラップにくるんで、冷凍庫にいれておいた。ところが翌日になると、いつもの胚芽米の御飯が食べたくなる。 「別に一週間、食べ続けなくてもいいだろう」  と、私はふだんの食事に戻した。ちょっと心配だったので、昼は健脳食の団子を食べたが、夜はふだんのメニューになった。そして二日たち、三日たちしているうちに、健脳食を食べる回数はだんだん減っていった。いくら和風のおかずと一緒に食べても、どうしても白い御飯が食べたくなる。健脳食は毎食はとても食べられない。一日一度、食べればいいだろうと思ったのだが、それが二日に一度、三日に一度になり、最後にはふだんと変わらない食生活に戻ってしまったのである。  私は原稿の締切りを忘れたふりをすることはあるが、忘れたことがないのがまだ救いであるが、いつそうなるかわからない。だいたい忘れるのは、仕事とは関係のない物事ばかりだが、それも情ない。特に食料品関係は忘れるともったいないので、問題が多い。しかし現実は厳しく、冷蔵庫を点検すると、とんでもないものが出てきたりするのだ。  先日も、午後、原稿を書いていて、少しお腹がすいたので、冷蔵庫をひっかきまわしていたら、奥にうぐいすもちがあった。まあ、うれしいと喜んだのだが、どう考えても、うぐいすもちを買った記憶がない。おそるおそる手をのばして引っぱり出して見たら、今年の正月に買った無添加のもちに、びっしりと緑色のかびがはえたものだった。たしか私は同じことを、今までに三度やっている。そのたびに、私はうぐいすもちが食べられなかったのと、自分の物忘れのひどさにがっくりした。それをまた今回もやってしまったのである。  こうなったら、冷蔵庫を徹底的に調べてやろうと、中のものを、全部、出してみた。五年前に買ったカレーパウダーやら、ほんのちょっと残っているマヨネーズ、もらいもののジャムなど、私の記憶になかったものが続々と出てきた。そして冷凍庫を調べたとき、真っ黒な汚いものが、ごろごろと転がり出してきて、びっくりして、ぎゃっと叫びそうになった。私はそれを見て、自分が健脳食を作ったことを思い出した。健脳食を作ったことすら、私の記憶から欠落していた。いったいこれはどういうことなのだろうか。私は脳のために、再び、この真っ黒な団子を蒸して食べるべきか、それともすべてなかったことにして廃棄処分にするか、冷凍庫の扉を開けたり閉めたりしながら、悩んでいるのである。 [#改ページ]    夢の不思議  夢をなぜ見るか。それはとても不思議である。動物も夢を見るのだろうかと、学生時代、友だちと話したことがあるのだが、彼女は、 「絶対に見るよ」  と自信ありげにいった。家で飼っていた犬のリッキーが散歩をしている夢を見ているのを、目撃したというのである。そのとき彼女は、試験勉強の手を休め、二階の自分の部屋から庭を見下ろしていた。リッキーはだらーんと芝生の上に寝っ転がって熟睡している。 「飼い主が必死で勉強しているというのに、呑気な犬だ」  と思いながら眺めていたら、リッキーは横になって目をつぶったまま、突然、歩いているみたいに、四本の脚を動かしはじめたという。それは約二分ほど続いたのだが、リッキーはとても満足そうな寝顔をしていたのだそうだ。 「犬の満足そうな顔って、そんなのわかるの」  と私が半信半疑でいうと、彼女は、 「あなただって、飼っている動物が、満足しているかそうじゃないかわかるでしょう。だから私はリッキーがうれしそうにしているのがわかったの!」  といい張ったのである。  リッキーはとても散歩が好きな犬だった。いつもは彼女かお母さんが朝と晩に散歩に連れていくのだが、そのときは彼女は試験、お母さんは旅行中で、リッキーは朝の散歩しか連れていってもらえなかった。だからきっと、 「散歩に行きたいなあ」  という気持ちが高じて、夢を見させたのではないかと、彼女は推理したのである。そして、あの動作を見たさに、 「散歩に連れていく回数を減らして、実験をしてみた」  ともいった。しかしそういつも夢のなかで散歩をするわけでもなく、それ以降、一度もそのような動作をしたことはなかったのだった。  その話を聞いた直後、私は彼女の話にうなずかざるをえなくなるような事が起こった。夜、うちで飼っていた文鳥のピーコが、鳥籠の巣の中で寝ていたのだが、突然、 「ギャッ」  とものすごい声を出して、巣の中から飛び出してきたのである。びっくりした私たちが、 「どうしたの、どうしたの」  とあわてて鳥籠をのぞき込むと、ピーコは止まり木に止まってぼーっとしていた。自分でも何が起こったか、よくわからないようであった。別にけがをしているわけでもなく、巣の中に何かが侵入してきたわけでもない。 「あんた、猫に追いかけられた夢でも見たんじゃないの」  と母親が笑うと、ピーコは目をしょぼしょぼさせながら巣に戻り、再び寝てしまったのである。このふたつの事柄だけでは、動物は夢を見るのだとは断言できないかもしれないが、友だちと私は、そのほうが楽しいので、夢を見ることにしたのだ。  手元にある大辞林をひいてみたら、夢の意味として、 「睡眠時に生じる、ある程度の一貫性をもった幻覚体験。多くの場合、視覚像で現れ、聴覚・触覚を伴うこともある。非現実的な内容である場合が多いが、夢を見ている当人には切迫した現実性を帯びている」  と書いてあった。幻覚体験という部分になんだかどきどきしてしまうが、夢のストーリーのぶっとんだ内容を考えると、そういういい方にもうなずける。しかし一方で、夢占いというものもある。時折、女性誌で夢占いの特集をすることがあるが、それを見るとなるほどと思う反面、本当かしらと疑いたくなる。欲求不満の夢、恋人が現れる夢、など、夢のなかに登場するものが象徴している事柄があるようだが、それが本当にそうなのか、いまひとつ首をかしげるのである。  見た夢をよく覚えている人は、夢占いのときも苦労しないだろうが、私は見た夢をほとんど忘れてしまう。今までは、私は夢を見ないと思っていたのだが、ある人に、 「夢は寝れば誰でも見ているらしいよ。見ないのではなくて、起きたときに忘れているんだって」  といわれ、私は納得した。起きているときでさえ物忘れが激しいのだから、寝ているときのことなど忘れるに決まっている。しかし覚えていないとなればなるほど、自分はどういう夢を見たかが気になって仕方がない。私がこれまでで強烈に覚えているのは、真田広之にプロポーズされた夢で、一週間ばかり有頂天になっていた。しかしそれが私の最高の夢だったらしく、それを境にとんと夢の記憶はなくなってしまったのである。  私は自分で見た夢を覚えていないが、知り合いの夢に私は図々しく顔を出しているらしい。 「また、あなたが出てきたわよ」  とうんざりされるくらい、いろいろな方々の睡眠時間にお邪魔している。怖い夢を見るのも嫌だが、自分が夢のなかで何をやっているかというのも、ちょっと怖い。口に出していえないような、とんでもなく恥ずかしいことをやっていたらどうしようと、 「夢に出てきた」  といわれるたびに、 「変なことしてなかった」  といつも怯えながら尋ねるのだ。  ある男性が見たのは、活劇物であった。夢を見た本人はその活劇のヒーロー役として登場した。夢のなかで彼は、世界各国のその筋では恐れられ、銃の腕もすばらしい、ゴルゴ13みたいな男になった。イタリアマフィアの巣窟に単身で乗り込んだものの、すんでのところで逃げられた。その場所がニューヨークや香港などではなく、浅草花やしき付近という設定がお茶目である。ヒーローは銃を構えて彼らを追っていく。ところがいつも、もうちょっとでつかまえられるというところで、彼らはうまいこと逃げてしまう。いったいどちらに逃げたのだろうかと、きょろきょろしているところに、唐突に現れたのが、看護婦姿の私である。 「やつらはどこに行った」  そうヒーローが聞くと、私はある方向を指さし、 「あっち」  とひとことだけいって、すたすたと歩いていった。彼はいわれたとおり、私が指さした方向に走っていった。マフィアの後ろ姿は見えたのだが、あっという間に見失った。またそこできょろきょろしていると、 「何、やってんの」  と声がする。声のしたほうに目をやると、看護婦姿の私がブロック塀にまたがり、 「まだ、みつかんないの」  と足をぶらぶらさせながら、呆れた顔をしていたというのである。彼はそんな私を無視し、マフィアを追いつめるべく、急いでその場から去っていった。  活劇のラストはどうなったかというのは、本人もわからないのだが、とにかくその夢は、知り合いが全員登場する、超豪華キャストだったという。彼がマフィアを追っていく間、いろいろな人に会う。それがみんな知り合いで、あとからそれを思い出すと、おかしくてたまらなかったそうだ。ある人は古本屋のおやじさんになり、ある人は団子屋のおばさんになり、ある人はマフィアの情婦役。 「そう思うと、きみの看護婦役もぴったりだったね」  彼は自分の夢を自慢した。私はブロック塀にまたがって、足をぶらぶらさせていたというくだりが、頭にこびりつき、しつこく、 「パンツは見えてなかったでしょうね」  と念を押した。 「見えてなかった」  という答えをもらって、ほっとした。他人の夢のなかでとんでもないことをしていて、見た人があとからそれを思い出し、 「ぷぷぷ」  と笑われるのは、私にしてみたら、何よりも恥ずかしいことなのだ。  私の女友だちのなかで、何度も私の夢を見る人がいる。 「また、おでましになったわよ」  と、夢の話を聞かせてくれるのであるが、よくもまあ、次々にしゃしゃり出てくるものだと、我ながら呆れる。そのとき彼女はまだ私の母に会ったことがなかった。エッセイで私の両親のことを読み、いったいどんな顔をしているんだろうかと、あれこれ想像していたら夢を見てしまった。呼びもしないのに、私が彼女の家を訪れ、 「うちの両親も連れてきたの」  という。彼女が、 「まあ、それは、それは」  と喜んで出迎えると、何と母親は江波杏子、父親は金田龍之介だった。江波杏子は大島紬をきりりと着こなし、金田龍之介ともども頭を下げ、 「こんな子ですけれど、どうぞよろしくお願いします」  と深々と頭を下げて帰っていったのだそうである。 「我ながらすごい想像力だと感心しちゃったわ」  そういって彼女は大笑いした。もちろん私の両親は二人には似ていない。なんでその二人が彼女の夢に登場したか、私なりに考えてみると、私を製作した両親ということで、さばさばしている性格の部分が江波杏子、体型を現していたのが金田龍之介だったのだと思う。  別の日、彼女の夢のなかに登場した私は、ちょっと今までとパターンが異なり、「私であって、私でない私」だった。彼女はその夜、寝る前に私のエッセイを読んでいた。そのなかで私は、前田美波里みたいに肌の色が小麦色で顔の彫りも深く、背のすらっとしてプロポーションのいい人に生まれたかった、でも、身長が百五十センチそこそこの私に、前田美波里の顔がくっついていたら、さぞかし気持ちが悪いだろう、と書いていた。その部分を彼女は読んで、早速、夢に見てしまったのだ。  私との待ちあわせ場所に現れたのは、身長百五十センチそこそこの、前田美波里であった。背が低いなりに均整がとれていればいいのに、私とそっくり同じ、胴長短足体型である。 「遅れてごめんね」  と私がすり寄っていくのだが、彼女はびっくりして声もでない。 「あなたのこと、知りませんけど」  というと、胴長短足の前田美波里は、 「やだー、あっはっは」  と豪快に笑いながら、彼女をカラオケボックスにつれていこうとする。顔が違うといって抵抗する彼女に、私は、 「やっと、自分の望んだ顔になれたのよ。どうして喜んでくれないの」  と、とっても悲しい顔をしたというのである。 「顔は平たくて目も細いけど、やっぱりその顔のほうが、ずっといいわ」  彼女はそういってくれたが、私にとっては何とも複雑な思いがする夢であった。  夢にはおかしい夢、不気味な夢、さまざまなものがある。あるとき、私が珍しく風邪をひいて、三十八度近くの熱を出して寝ていたとき、電話がかかってきた。受話器を取るなり、母の、 「具合が悪いんじゃないの」  という声がした。理由を聞いてみると、夢のなかに私が出てきて「熱い、熱い」と母に訴えたという。やっぱり夢は不思議である。 [#改ページ]    決意のダンベル  私の周囲では、スポーツをしている人がとても多い。主婦でもスポーツクラブに入会して、せっせと通っているようである。話をしていても、時間を気にして、 「これからクラブに行かなきゃ。じゃあね」  と帰っていく。あの不精な友だちが熱心に通っているなんて、同じような性格の私にとっては、信じられないことだった。  ある人はテニス、ある人は水泳。マシーントレーニングももちろんするし、中年になってからスキーを始めた人もいる。 「とにかく面白くてしょうがないわ」  と彼女たちは喜んでいる。そして私は、 「あなたはずっと家のなかにいるんだから、運動不足になるのは当たり前よ」  と怒られるのだ。 「面倒くさいんだもん」  と口をとがらせると、彼女たちは、 「山の奥に住んでいるわけじゃあるまいし、ひと駅、電車に乗ればスポーツクラブなんて、いくらだってあるじゃない。それで運動をしないなんて、怠慢としかいいようがないわ。このまま意識して運動をしないと、大変なことになっちゃうわよ」  と私を不安に陥《おとしい》れるのである。  どうしてそんなに熱心に通うのか、とたずねたら、最初は、 「若い男性がたくさんいるから」  が理由だったと白状した。結婚して子育てに専念していると、若い男性との接触なんて全然ない。とにかく話すのは、家の近所の奥さんや、学生時代の友だちなど、同性ばっかり。やっと子育ても終わり、スポーツクラブに行ってみたら、そこには体の線も美しく、爽やかな若い男性が、そこいらへんにいる。あまりのうれしさに、頭がくらくらしたそうである。彼らの爽やかな笑顔見たさに、彼女はクラブに日参し、それと同時に熱心にトレーニングに励んだ。するとそのうち、自分が進歩していくのが、うれしくてたまらなくなり、やみつきになってしまったというのである。 「歳をとると、自分が進歩してるっていう充実感なんかないじゃない。物忘れが激しくなったり、どんどん後退していく感じがしてたのよ。だけどトレーニングしていると、半月前にできなかったことが、できたりするのがわかるのよ。あの喜びは若い男の笑顔にもまさるわね」  彼女はとにかく筋力をつけ、ジョギングにも励み、いつかは大会に出て、自分の能力を試したいといっているのである。  私は体を動かすのは嫌いではない。一日中、家にこもっていると、体を動かしたくてうずうずしてくる。そうなると近所を小一時間散歩したり、買い物をするのに隣の駅まで歩いて往復したりする。しかしスポーツクラブに通うことには、どうしてもなじめない。とにかく放ったらかしにしてくれるのならいいけれど、実はそうではない状況も耳にしたりして、 「やっぱり、やめよう」  とうなずいたりしていたのだ。  そんな折り、スポーツクラブに通っていた、友だちのうちの一人がやめた。 「迷惑なおせっかいおやじがいたから」  というのが理由である。彼女は学生時代に運動をしたことがなかった。何をするにも、どうやって体を動かしていいかわからない。それは自分も自覚していたから、最初はインストラクターに教えてもらった。泳ぎ方、マシーントレーニングのやり方、走り方も覚えた。  彼女はインストラクターは信頼していた。ところが、インストラクターでもない、ただ彼女より先に、スポーツクラブに入会しているおやじが先輩面して、インストラクターの目を盗んで、彼女にああだこうだと教えたがるというのである。  彼は二メートルくらい離れたところに立ち、腕を組んで彼女のすることを見ている。そして彼女が手や足を動かすたびに、 「あーあー」  などと声を出す。彼女がぎょっとしながらも、無視していると、 「あーっ」  とため息のような声を出す。むっとしてもう一度同じことをやると、彼はつつつとやってきて、 「そうじゃなくて、こうしたほうが、もっといい」  といちいち手の位置、足の位置をうるさくチェックするというのである。 「そのときに、ガツンと一発文句をいって、追っ払っておけばよかった」  彼女は悔やむのであるが、彼女がびっくりして無言だったのを、自分が歓迎されていると勘違いしたそのおやじは、それから彼女が姿を見せると、 「さあ、やりましょう」  といって専属インストラクター気取りなのだそうである。 「結構です」  と断っても、 「いやいや、遠慮は無用です」  といってまとわりついてくる。この時間はいないだろうと、彼がいそうもない時間を狙って行っても、必ずいる。どういうわけだか、いつ行ってもクラブにいるというのである。 「きっと家に居場所がないから、スポーツクラブに来て、一日中、暇をつぶしているのよ」  彼女は怒っていた。  そしてプールに入れば入ったで、また、別のおせっかいおやじが待っていた。彼女が平泳ぎをしていると、 「ああ」  という声がする。知らんぷりをして泳いでいると、隣のコースを異様にフォームのきれいなクロールで追いかけてきて、 「そんな泳ぎ方ではタイムは出ませんよ」  というのだそうである。 「別に私は速く泳ごうなんて思ってません」  彼女がいっても、彼はそんなことは気にもとめず、 「速く泳げるようにならなきゃ、スポーツクラブに来ている甲斐がない」  と勝手にきめつけている。いくら彼女が、 「私は自分の楽しみのために泳いでいるのだから、本当に結構です」  といっても、 「大会に出て、いいタイムが出たら、あなたも励みになるでしょう。目にみえる成果がないと、人間は張り合いがなくなるんです」  などと、こんこんと説教を始めたというのである。そして大会でいいタイムを出すためには、ふだんの自分の力以上のものを出す必要がある。そのためには、私が崇拝しているパワーのある神様がいるので、あなたも集会に来ないかと、水着姿で宗教の勧誘までされた。そして驚く彼女にむかって、 「この神様を信じている人は、みんな大会でいい成績をあげるんですよ。ほーら、あそこで泳いでいる奥さんも、シニア大会で優勝したんです」  と真顔でいったというのである。  二人の迷惑なおやじは、大会と名がつけば、何にでも参加しているらしい。そして、鏡があるとそこに自分の体を映して、うっとりしている。時折、自分の体を見て、満足気に笑っていることもあるという。たしかに年齢を考えると、彼らは体がゆるんでいなくて、ちゃんと筋肉がついている。そしてそれを十分、本人も自覚しているから、 「お若いですね」  といわれると、これ以上、うれしいことはないといった顔をするのだそうだ。 「大会に出て、いい成績をとりたい人はそうすればいいのよ。だけど私はストレス解消と体重削減のためにやってるんだから、放っておいてほしいわけ」  彼女はストレス解消どころか、その二人のおやじのおかげで、目一杯、ストレスがたまってよけい太ってしまったと、思い出してはまた怒っていた。  私は、 「そんなところ、やめてよかったわよ」  といいながらも、今後のことを考えるとちょっと不安になったのも事実である。彼女はもちろんのこと、私もただ散歩をしているだけで、いいんだろうかと心配になった。 「やっぱり何とかしないといけないかしら」  といっていた矢先、彼女が、 「これだ、これだ」  といって雑誌の切抜きを持ってきた。スポーツクラブとは縁を切るといった彼女は、家でできる運動を探していた。で、ある雑誌を見ていたら、私たちにぴったりの運動が載っていたというのだ。  それはダンベルを使う運動で、「スーパーモデルもやっている」と書いてある。この運動をしたら、スーパーモデルみたいになれるんじゃないかと、思わせるところが曲者である。うそばっかりと思いながらも、無視できないところが、中年女の辛いところなのだ。 「ほーら、見て。これならできそうよ。邪魔するうるさいおやじもいないし。いかにもたるんだ所に効きそうじゃない」  二の腕、太もも、下腹、背中、たしかにたるみのある部位に効きそうだった。 「ね、ダンベルを買いに行こうよ」  彼女は熱心に誘う。私はどうしようかと迷っていたのだが、 「あなた、これが運命の分かれ道よ。ただ散歩しているだけで、ぶよぶよになるか。それとも一日、十五分、ダンベル運動をしてゆるんだ部分を引き締めるか。さあ、どうすんのよ!」  と詰め寄られた。さすがの私も、 「これくらいのことは、やる必要があるかもしれない」  と、決意して彼女と一緒にスポーツ専門店に、ダンベルを買いに行った。  そこにはたくさんのダンベルがあった。水をいれて重さを調節できるプラスチックのものから、運動選手が使うような銀色に光るいかにも「本式」のものまで、さまざまの種類があった。私たちはウエイトが取り外しができる方式のダンベルを買い、私はウエイトが一キログラムでは軽い気がしたので、二キロのおもりも買った。右を向けば色とりどりのレオタードや靴。左を向けばルームランナーやエアロバイクなど。どこもかしこもスポーツグッズであふれかえっていた。フロアにはプロテイン専用の、立派なコーナーまである。彼女もスポーツクラブに行っていたときは、プロテインを飲めと勧められたそうだが、ひと口飲んで、あまりのまずさに閉口してやめたのだといっていた。 「こんなにたくさん、プロテインの種類があるなんて」  私はただただびっくりするだけだった。バナナ味やヨーグルト味まである。棚を見上げて、 「すごいわねえ」  という言葉しか出てこない。そのとき、ふと別の一角に目をやると、何やらきらきらと光っているものがある。いったい何だろうかとそばに寄ってみたら、そこにうやうやしく陳列してあったのは、水晶の玉やネックレスといった、水晶グッズであった。野球選手がぱかーんとホームランを打っている写真や、トライアスロンで表彰されている男性の写真と共に、 「あなたを幸せに導く水晶パワー。これで好成績は間違いなし!」  と書いてあるではないか。いったいこれは何なのだ。いくらトレーニングしても、とどのつまりは神頼みなのか。私たちはまたまた、 「すごいわねえ」  としかいう言葉がなかった。そして運動マニアの人たちに関しては、いまひとつ理解できないことが多いと、ダンベルを抱えてそそくさとその場を立ち去ったのである。 [#改ページ]    ベルトだって空を飛ぶ  新宿駅前から、ある出版社までタクシーに乗った。話好きの運転手さんで、いろいろと家族の話をしてくれたのだが、突然、 「うちのかあちゃんったらね、いろんなことをやったのに、全然、やせないんですよ。今までどれだけ金をつぎこんだことやら。やせるどころかね、お客さん。逆に太っちゃうんだから、もう、不思議としかいいようがないよ」  と苦笑いしながらいうのである。 「そんなにいろいろ試したんですか」  と聞いたら、やせるといわれている方法は、すべてやったらしいのだ。やせ薬、塩揉み、油ぬき、カロリー計算法、サウナスーツ、耳のツボへの鍼《はり》などなど。一所懸命にやっているなと思うと、 「あれは効果がないから、他の方法に変えた。今度は大丈夫だ」  という。あまりに彼女ががんばっているので、彼としても、 「そうか、そうか」  と結果を楽しみにしていた。ところが何カ月かたつと、やせるどころか、目にみえて彼女が太ってきた。 「お前、太ったんじゃないのか」  と問いただしてみたら、彼女は暗い顔をして、 「そうなの」  という。いろいろと試してみて、最悪の場合、体重が減らないのはまだ我慢ができるが、増えたとあっては暗い顔になるのも、当たり前である。それもお金を使って太ったのだから、これだったら何もしないほうが、まだましだったといえるのだ。 「あれは人体の不思議としかいいようがないよ。どうしてやせるといわれていることをやって、太るんだ?」  運転手さんは、心底、信じられないといいたげに、何度も何度も繰り返した。私は話でしかわからないが、現実を目の当たりにした彼は、首をかしげるしかないのだろう。 「ずいぶん前に、確実にやせるためのエステティックサロンは、『一キロ一万円だと思ってください』と、お客さんにいったという話を聞いたことがありますよ」  私が友だちから聞いた話をすると、彼は、 「え、本当ですか。それはどこですか。本当に一キロ、一万円でやせられるんなら、払ったっていいですよねえ」  と真顔になった。ここで出版社に到着したので、車は止まったのだが、彼は、 「そうか、かあちゃんに教えてやろう」  といつまでもひとりごとをいっていたのであった。  奥さんがやせるのに努力していることに、こんなに関心を持っている亭主は、少ないのではないだろうか。やせる体操を部屋でしていても、だいたいの男性は、 「何やってんだ」  と呆れ、 「今さら、そんなことをやったって、しょうがないじゃないか」  といい、 「それよりも、早く晩飯を作ってくれ」  と機嫌が悪くなるのが、おちなのではないだろうか。たしかに女性のやせる願望というのは、男性から見たら、 「なんでまあ、あんなことを」  と呆れたくなるものなのかもしれないが、女性にとってはやはり、重要な問題なのだ。  友だちに漢方薬好きの編集者がいる。彼女が香港の漢方薬店で物色していると、そこのおじさんがやってきて、やせる薬を熱心に勧める。彼女が、 「そんなに効く薬なんて、あるわけないでしょう」  と適当にあしらっていると、彼は、 「日本からもやせたというお礼の手紙がいっぱいきた」  といって、ぶ厚いファイルを持ってきた。彼がいうとおり、そこには日本からのお礼状がたくさんあった。しかし文面をみると、そこにあるのは、「百十キロが百キロになりました」とか、「九十二キロが八十九キロになった」という、それだけもともとの体重が多ければ、それくらいはすぐやせるだろうと、いいたくなるようなものばかりだったというのだ。しかしあまりにしつこく勧めるので、ためしに買ってみたのだが、服用の結果、やせる徴候は全くない。あとで調べたら、成分がやせるためのものというより、精力減退に効くものだった。 「日本円に換算すると、一万円もしたのに、こんなもんに一万円払って、元気にならなくてもよかった」  と彼女はこの話題が出るたびに、むっとした顔をするのである。  私は前月号のこのページで、ダンベル運動をするために、ダンベルを購入した話を書いたが、自分が予想した通り、三日坊主に終わった。今では二キロのダンベル二本は、文鎮がわりに原稿用紙の上にごろりと横になっている。また何カ月かたったら、再びダンベルを手にするかもしれないが、今のところは、 「あーあ」  と思いながら、なるべくダンベルが置いてあるほうを見ないようにしているのである。  今さらファッションモデルになりたいわけではない。スタイルのいい若いお嬢さんたちと張り合いたいわけでもない。小さいサイズの服を着たいわけでもない。 「どうしてそんなにやせたいと思うんですか」  と男性に聞かれると、私はどうしてだろうと自分に問いかける。腕のたるみも考えてみればしょうがない。太ももの肉がやわらかくなるのもしょうがない。しかし私には、どうしても納得できないことがある。きっとこれは男性には絶対にわからない問題だが、私みたいな太りぎみの女性なら、口には出さねど、みなうなずいてくれるのではないかと思う。  その問題というのは、スカートのベルト部分である。スカートというのは、デザインによっては違うものもあるが、だいたいのものはウエストのいわゆるベルト部分と、そこから下の部分とに分けられる。このベルトが、永年、私を悩ませている。私がふだんはスカートをはかなくなったのも、スカートのベルトのせいなのだ。  私がスカートをはくと、ベルトがどう変化するかを白状すると、ちょうどベルトの前中心から左右八センチくらいずつが、くるりと外にむかって丸まってしまう。最初、これはスカートの素材の問題かと思っていたのだが、夏服、冬服、値段の高い、安いにかかわらず、みーんな前側のベルト部分がくるりと外に丸まる。スカート掛けにかけてあるスカートすべてが、ベルトが丸まっているものばかりになったのである。  まだ買ったばかりのものをはいたときは、スカートも気合いがはいっているので、ベルトが丸まることはない。 「やっぱり、ちょっと値段が高めだったから、よかったのかしら」  と機嫌をよくして、二回、三回とはくうちに、ベルトがくにゃっとなってくる。ここであわてて、脱いですぐアイロンをかけたりするのだが、もうベルト部分は丸まる態勢にはいっているので、何をしても無駄。四回目にはくころには、ちゃーんとベルトはくるりと外側に丸まって、みじめな姿になるのだ。  どうしてこうなるかというと、座ったときにベルト部分が圧迫されるからである。立っているときは問題はないのだが、椅子に座ると、せり出た胃のあたりの肉と腹の肉が、スカートのベルト部分を、上から、下から、圧迫する。正面から見たら、きっと前中央のベルト部分は肉に埋もれて見えないはずだ。スカートの前中心の部分は、かわいそうに上下のあまった肉にプレスされて、二つ折り状態になってしまう。いちおうベルトのなかには、型くずれをふせぐために芯地も縫い込まれているのだが、さすがの芯地も上下からのぜい肉攻撃には耐えられず、肉の力に負けて外にむかって丸まってしまうというわけなのである。  これではいけないと、私もいろいろ考えた。スカートのウエストサイズが小さめだから、ウエストに食い込むかと思って、大きめのをはいてみたが、ぜい肉の力に勝てないのは同じだったし、ウエスト寸法の合わないスカートはひどくみっともない。ベルトがないタイプのデザインも探してみたが、流行があるのか、そう簡単には見つからないし、どうもデザインがいまひとつなのである。  しまいには革のベルトを上から締めて、腹の肉と革の力くらべにしてしまえばいいのではないかとやってみたら、たしかに革でガードされて、スカート本体のベルトは丸まることはなかったが、今度はベルトのバックルが、胃のあたりの肉に食い込んで痛くなった。  私は自分だけがこんな目に遭うのだと、ずっと悩んでいた。せりでたぜい肉のために、ベルトがくるりと丸まってしまうなんて、よほど親しい人じゃないといえない。ところがあるとき、友人の若い女性の作家と、漢方薬好きの編集者と話をしていたら、二人とも、 「あら、私だってそうよ。うちにはベルトが丸まってないスカートなんてないわ」  というではないか。私たちは、せり出た胃のあたりの肉と下腹の肉を持った同士として、 「おーおー」  といいながら思わず抱き合ったのだった。  その編集者は、私と同じように、ウエストに革のベルトをしたら、ぜい肉に食い込んで苦しかったので、ゴム製のベルトをしたことがあるといっていた。太いベルトでスカートのベルトもろとも、せり出た胃のあたりの肉も、締め上げようという魂胆であった。彼女の思惑どおり、仕事中、見ていると幅広のゴムが胃のあたりの肉を締めているために、ベルトの上にぜい肉はかぶさっていない。よしよしと思いながら、昼食を食べるために外に出た。後輩の男性と一緒である。しばらく歩道を歩いていたら、「ブチッ」というものすごい音がした。あれっと思った瞬間、ウエストに巻いていたベルトのバックルがはじけとび、本体はひゅるるーと空を飛んで、三メートル先に落下したというのだ。それを見た男性は、それが彼女のウエストからすっとんでいったものだとは気がつかず、 「あれ? あれはいったい何ですか」  と歩道の上のゴムベルトを、おっとりと指さしたという。 「腹のぜい肉の力をばかにしちゃいけませんよ。ゴムベルトでさえ、ひきちぎるんですから」  彼女は興奮して話をしていたが、私たちはよほどやせなければ、一生、ベルトが買ったときのままの状態のスカートなんかはけないんだわと、お互いに慰めあったのである。 「私はウエストがいちばん太いから、そんなことないわよ」  この話をしたら、ある友だちはそういい放った。彼女は見事な卵形体型で、どこを探してもウエストはない。それどころかウエスト部分がいちばん太いのだ。 「中途半端にウエストがあるから、そんなことになるのよ」  と彼女はいう。 「だからあなたは、やせるんじゃなくて、逆にウエストを太くするべきなのよ。そうすれば、上下のぜい肉にはさまれて、ベルトが食い込むことだってなくなるじゃない」  やせるよりも、太るほうがずーっと簡単だし、スカートのベルトが丸まらないためにも、そのほうが絶対にいいと彼女はいい張る。 「発想の転換をせよ」  と彼女に迫られて、私は心底、当惑してしまったのだった。 [#改ページ]    わが家のBS戦争  十数年前、私がひとり暮らしを始めたときに、いちばん困ったのが、突然、現れる新聞勧誘員と、NHKの受信料集金人だった。会社から帰ってきて、ほっとひと息ついたころや、休みでぐだーっとしているときに、やってくる。そのころはドアスコープがないアパートに住んでいたので、私は、 「見知らぬ人には、絶対にドアを開けてはいけない」  と心に決めていた。ひとり暮らしをした当初は、アパートのドアがノックされるたびに、どきっとして、とにかく彼らに対しては、頭を悩ませていたのである。  まだ新聞勧誘員のほうは、はっきり断っても気が楽だった。ほとんどの人が図々しくて、こちらが高飛車に出ても、あとで心が痛むということはなかった。新聞をとってくれといわれて、台所の窓から、 「結構です」  と断ると、洗剤やら切符らしきものをちらちらさせて、 「サービスしとくからさあ」  などという。それでも、 「結構です」  と断ると、 「なんだ、ブスのくせに」  などといい捨てて、ドアを蹴って去っていく奴もいた。ハンサムな男性にいわれたら、私だって道理がわからない人間ではないから、 「おっしゃる通り」  と素直にうなずくが、そういう言葉を吐くのに限って、 「お前だけには、いわれたかねえよ」  といいたくなるような奴ばっかりだった。  またあるときは、夜、九時すぎに、明るい声で、 「お届けものです」  と声がした。ぴんときた私は、 「どこからの荷物でしょうか」  と聞いた。するとしばらく沈黙が流れたあと、また、とってつけたような明るい声で、 「お届けものでーす」  というのだ。無視していると、今度は、どんどんとドアを叩き続け、そのあと、 「ちぇっ、ふざけるんじゃねえよ」  という捨てぜりふを残して、相手は去っていった。こっちこそ、 「ふざけんじゃねえよ」  といってやりたかったが、このような調子で、私と新聞勧誘員は闘いを続けていたのであった。  一方、別の意味で困ったのが、NHKのおじさんである。私はどうしてNHKの受信料を払わなければならないか、よくわからなかった。コマーシャルがないから、受信料をとらないと経営が成り立っていかないという話であったが、当時、私はほとんどNHKを見ていなかった。見ていないのだから、受信料は払わなくていいだろうと、思っていたのである。同じくひとり暮らしをしている友だちに、NHKの受信料はどうしてるかと尋ねたら、 「あれは、困るのよ」 「アパートのドアに、『またあらためて、お伺いいたします』という紙が挟んであった」  など、彼らも困っているようだった。なかに一人、とても貧乏な男の子がいて、テレビは持ってないからと断ったら、 「嘘でしょう」  といって信用しない。何度いっても、 「嘘でしょう」  を繰り返すので、頭にきた彼が、 「それなら上がって見てくださいよ」  と部屋のなかにいれて初めて、NHKの人は納得した。そして、家具などが一切ない部屋を見渡して、 「早くいろんなものが、買えるようになるといいねえ。がんばるんだよ」  と彼を励まして帰っていったというのであった。  私のところに来るのは、おじいさんばかりであった。それも天気がいい日ではなく、雨がざんざんと降っている日にやってくる。私は台所の窓から、そっとのぞいて、ずっと居留守を使っていたのであるが、あるとき、ふっと応対してしまったのだった。見るからに善人そうなおじいさんで、 「すみません、NHKなんですが、受信料をお願いできませんでしょうか」  といって、何度も何度もお辞儀を繰り返す。 「うーむ」  私はしばしの間、彼を追い返すか、受信料を払うか、葛藤したのであるが、とうとうNHKに屈服し、受信料を払うことにした。まるでNHKに払うというよりも、雨に濡れてやってくるおじいさんに、お駄賃を上げたような気分であった。  それから受信料問題は、何事もなかったのだが、昨年、今、住んでいるマンションに引っ越してから、また受信料問題が発生した。引っ越して間もなく、横柄なNHKの男性がやってきて、判を押して手続きをしてくれという。おじいさんじゃないので私は強気になり、引っ越す前に、ちゃんと電話でNHKに移転の届けをしたのだから、二重に届けを出す必要はないんじゃないかといっても、コンピュータがどうのこうのと、ぐずぐずいっている。判だって必要のないものは、むやみに押したくない。それで私の不信感はいっきにつのり、NHKに対する嫌な感じがむくむくとめばえてきたのである。そして、次には、 「衛星放送の料金も一緒に」  というのだ。 「ここのマンションには、衛星放送のアンテナはついてないですよ」  そういって私は、彼を追い返した。そんなことはマンションの設備関係の書類にも書いてなかったし、BSチューナー内蔵のテレビやビデオを持っていなかったからである。 「本当に、気を許すと、何をされるかわからないわね」  私は感じが悪いNHKの人の態度を思い出し、しばらくの間、胸くそ悪い思いをしたのであった。  それから半年ほどしたある日、別のNHKの人がやってきた。彼は感じがよく、遠慮がちに、 「衛星放送の受信料を……」  という。 「ここには衛星放送のアンテナはついてないんです」  というと、彼は、 「そうですか、それは失礼いたしました」  といって帰っていった。その後、使っていたビデオがこわれたので、安売り店にいって新しいものを買ってきた。それはBSチューナー内蔵だったが、 「今は見られないけど、次に引っ越したところには、衛星放送のアンテナがあるかもしれないから」  と思いつつ、抱えて帰ってきたのだ。  そしてつい最近、またNHKの人がやってきた。会社員などをつかまえるには、そのくらいの時間じゃないと、困るのだろうが、夜の八時に来られるのは、私のプライベートな時間に、ずかずかと入りこんでこられるような気がして、とても迷惑だった。彼は前の人たちと同じように、 「衛星放送の受信料を」  という。あれほどいったのに、まだ懲りないのかNHKは。しつこい、と私は頭にきて、マンションの設備関係の書類を見せた。 「UHFは受信できるし、私も見ているけれど、衛星放送は受信できないんです!」  ところが彼はひるまない。へへへとうす笑いを浮かべながら、 「いやー、屋上には大きなアンテナがついてるんですけどねえ」  という。そんな話は私は聞いたこともないし、友だちにも、 「ここは衛星放送が受信できないんだよ」  と話していたのだ。 「そんなことないでしょう」 「いいえ、アンテナがあります」 「アンテナがあったって、私、受信できないと思っていたから、見てないもの」  そう答えても、彼は私に疑わしそうな目をむける。そういったって、あんた、ちゃっかり見ているんじゃないの、といいたげな顔なのだ。 「わかりました。疑うんだったら、上がって見て下さいよ。うちのテレビには衛星放送は映りませんから」  私は彼をテレビの前に座らせた。彼はだんだん声が小さくなり、 「私は機械のことはわかりませんから、わかりませんから」  と繰り返すだけ。 「機械のことがわからないっていったって、それじゃ衛星放送が映るか、映らないかもわからないの。アンテナがあるからっていったって、見てない人だっているでしょ。そういう人たちから、受信料を取るなんておかしいじゃない」  私がまくしたてると、彼は、 「あ、このテレビ、BS内蔵じゃない……」  とつぶやいた。 「そうです!」 「あっ、でも、でも、ビデオはBS内蔵ですね。これなら見られます、見られます」  彼はとたんに明るくなった。 「じゃ、うちのテレビの画面に、衛星放送が映るかどうか、確認して下さいよ」  私はビデオを通して、衛星放送の画像が画面に映らないことを示し、見ていないという事実を、証明したのである。 「でもこれ、ちゃんと接続したら見られますから。ね、衛星放送は見たいでしょ」 「まあ、たまーに見たいと思う番組はありますけどね」 「じゃあ、受信料、お願いしますよ」  この期に及んで、まだ受信料、受信料という彼に頭にきて、私は、 「どうして今、見てないのに、払わなきゃならないのよ。私がこの目で放送を見て、確認したら払います。それまでは絶対に払いません!」  そういって私は、不満そうな彼をドアの外につき出したのであった。  次の日、私はビデオの説明書を開き、なんだかよくわからない、壁にあるコンセントみたいなものと、ビデオを接続してみた。すると、なーんと衛星放送が映るではないか。 「あらーっ」  てっきり映らないと思っていたのに、画面にはアメリカのニュース番組が流れていた。 「そうか、そうだったのか」  私は腕ぐみをして、今までNHKの人にした仕打ちについて考えた。いちばん気の毒だったのは、私に、 「アンテナがない!」  といいきられて、おびえておとなしくひき下がらざるをえなかった、二番目の人である。最初の人は態度が悪かったので、正直いってわびたくはないし、そのときは衛星放送が見られない機械しかなかったので、見てないのは間違いない。しかし、アンテナがないといったのは、知らなかったとはいいながら、結果的には嘘をついたことになった。 「うーむ」  衛星放送を見たら払うといったのだから、約束どおり受信料は払わなければならなくなるだろう。でもどうして、受信料って払わなきゃならないのだろう。いまひとつ、腑に落ちないものを感じながら、私は邪険に追い返したNHKの人々に対し、渋谷方面にむかって、いちおう、 「ごめん」  とあやまっておいたのである。 [#改ページ]    ごみ袋収集中  私が以前、住んでいた場所では、ごみはビニール袋よりも、防水加工をした紙袋で出すほうが好ましいと指示があった。黒いビニール袋はそのまま燃やすことができないという話だったので、私はデパートの紙袋や、スーパーで売っているごみ用の紙袋を買って、ごみを捨てていたのだ。  ごみを抱えて集積場に持っていくと、燃えるごみの日なのに、あき缶が一緒に捨ててあったり、テレビが放り投げてあったり、めちゃくちゃになっていた。そこの住人がそういうことをしていなくても、通りすがりの人が、飲み干した缶を目についたごみ袋のなかに突っこんでいくのを何度も見た。自転車に乗った主婦が、あたりをきょろきょろ見渡しながら、手にしたごみ袋を放り投げる。たまたま通りかかった私と目が合うと、すごい勢いでママチャリをこいで、路地を疾走していった。犬を散歩させていた男性が、手にした犬の糞が入っているらしき袋を、燃えないごみの日だというのに、道端のごみ集積場に捨てた。またあるときは収集が終わったごみ捨て場めがけて、クリーニング店のワゴン車の運転席から、黒い大きなごみ袋が二つ、投げ捨てられるのを目撃したこともある。そばにいれば、嫌味のひとこともいってやろうかと思うが、そういう人たちは捨て方がうまく、目撃者との距離のとりかたが、絶妙なのだ。追いかけても追いつけず、 「こらーっ」  と怒鳴っても、しらを切れる距離を保っている。悪いことをする奴には、それなりの技術が備わっている。私はずうずうしい彼らの姿を見ながら、 「何という奴らだ」  と腹を立てていた。道路ぞいのアパートの前を通ったら、 「○○様、××様、△△様以外の方は、絶対にゼッタイにごみを捨てないで下さい」  という紙が貼ってあった。絶対の二番目がかたかなになっているのが、管理をしている人の困惑ぶりを表していた。住人がきちんとしていても、自分の住んでいる地域には関係ないところで、適当にごみを捨てる輩がたくさんいるのである。  一年前に引っ越した今の住まいでは、ごみはビニールの袋に入れて、マンションのごみ集積場のバケツに入れる決まりになっていたので、それに従うことになった。これまでごみを捨てるために、買い物をしたときに商品を入れてくれる紙袋を山ほどためていた。引っ越しのときも、 「こんなものまで持っていくのか」  と呆れられたが、 「これはごみ袋として使うのだ」  といって、何だかんだで百枚近く、紙袋を持ってきた。ところが場所によってごみを捨てる方法が違うのを知り、紙袋の出番はおのずとなくなった。紙袋は押し入れにつっこんだままである。そのかわりに、黒いビニールのごみ袋を買わなければならなくなった。まさかこんなことになるとは思わなかった私は、バーゲンで黒いごみ袋を買いだめした。五十枚入りのごみ袋を買ったばかりのその二日後に、加賀まりこがテレビCMで半透明の袋を掲げ、 「十月一日から、こうなりまーす」  といっているのを見て、 「突然、どうしたんだ」  とびっくりしてしまったのである。  こりゃ安いととびついて買っておいた、黒いごみ袋が十月から使えなくなる。それもうちの台所の物入れには、百枚近くもあるのだ。私はもったいないと思いつつ、せっせと袋を二重にして、たくさんごみがたまっているわけでもないのに、こまめにごみを捨てたりした。そうしたらまた突然に、三カ月の猶予期間がもうけられた。 「こんなことになるんだったら、無理して二枚重ねにすることはなかった」  と悔やんだ。なんだか役人のいうことを素直に聞いていると、ろくなことが起きないような気がしてきたのであった。  近所のスーパーマーケットにいっても、半透明の袋は置いていない。ごみ袋のコーナーでは、黒いごみ袋を投げ売りしていて、「半透明の袋は、まだ入荷いたしません」という張り紙がしてあった。お店だって在庫を抱え、それを売り切らなければ仕入れられないだろう。私はごみ袋業界に関して詳しくないが、急にあんなことになって、黒いごみ袋を作っていた人たちも、困っているのではないだろうか。その反面、半透明のごみ袋を作ることになった人たちは、大喜びである。なんかちょっと、うさん臭い感じがする。ごみを収集する方々は、めちゃくちゃにごみを捨てる人たちのせいで怪我をしたり、本当に大変だと思うけれど、今回のごみ袋に関しては、 「いったい何があったんだ。本当にごみをきちんと分別するだけのために、半透明になったのか」  といいたくなるのである。  私の友だちの住むマンションでは、自発的に自治会を結成して、ごみ対策にのぞんでいるという。彼女は勝手に自治会という集まりを組織した、親玉のおじさんが嫌いで、誘われても無視していたのだが、 「ごみ出しの方法が、これから変わりますから」  といわれて、しぶしぶ参加することになった。集会所にいってみると、おじさんたちが作った「ごみ出し規則」のプリントがあり、読んでいるうちに、頭がくらくらしてしまったという。それにびっくりした彼女が、うちに電話をしてきて、 「都の分別ごみの捨て方が、ものすごく細かくなるみたい」  とあせり、私までびっくりさせた。私の住んでいる地域は、来年から半透明の袋を使うようにというプリントだけが貼られ、分別の方法は前と変わらない。ところが自治会に出席した彼女の話を聞くと、 「そんなに細かいことをいわれたら、丸一日、ごみと顔を突き合わせていなきゃならない」  といいたくなるような内容だった。  勝手に送りつけられる、ダイレクトメールの封筒も、ぽいぽいと簡単に捨ててはいけない。宛名の部分がビニールばりで、透けて見えるようになっているものは、ビニールの部分をはがし、それは燃えないごみ。本体は燃えるごみとして捨てるようにと書いてあった。ラップ類も燃えるごみにいれたらいけない。とにかくほかほか弁当、テイクアウトの寿司の箱も、素材によく注意して、すべて分別する。そしてそれは紙おむつ、生理用品、ストッキング、ゴム製品にまで及んでいたというのである。  彼女は猫のトイレの砂が気になっていた。トイレに流せる物を使っていたのだが、集合住宅ということもあり、燃えないごみとして処理していた。しかしこれからどうしていいかわからないので、自治会の親玉に、 「猫のトイレ用の砂はどうしたらいいんでしょう。いちおうトイレに流せるとは書いてあるんですが」  と聞いた。すると親玉は面倒くさそうに、 「それじゃ、トイレに流したらいいんじゃないですか」  といった。それでも彼女が気になって、 「でももしかして、詰まったりするといけないと思って」  と食い下がると、 「じゃ、燃えないごみにしておけば」  といい放ったというのだ。 「自分が作ったマニュアル以外のことを聞かれると、答えられないのよ」  会の親玉になりたがる人に限って、自分のいうことを聞かせるのは好きだが、人からきちんとした説明を求められるのは嫌いである。会で彼女が食い下がったのが気にいらなかったのか、親玉はこれまで自治会に参加しなかったことに対して、くどくどと嫌味をいった。そこで彼女も頭にきて、 「さっきはちゃんとした答えがいただけませんでしたけど、猫の砂はどうしたらいいんでしょうね!」  と反撃したら、ものすごい目つきでにらまれ、 「そんなこと知るか」  と捨てぜりふを吐いたという。彼女はマンションの人間関係の難しさも相俟《あいま》って、最近は機嫌が悪い。 「あー、もう、このごろはごみのことで頭がいっぱいだあ」  電話をしてくるたびに、彼女はぶりぶり怒っているのである。  彼女とごみについて話をしているうちに、私は紙類は燃えるごみとして出していいのかという、疑問が湧いてきた。資源ごみのなかには、たしか紙類があったはずである。新聞、雑誌はもちろん資源ごみとして出すが、それ以外の紙類はどうなるのか。うちの場合は特に、紙類のごみが多い。出版社から戻ってきた生原稿は、裏をメモにつかったり、下書き用に使ったりして、両面使ったあと、破って燃えるごみとして捨てていた。問題はワープロ原稿である。ずいぶん前、ワープロ原稿は、再生紙を作る段階で、まだインクがうまく処理できないとかで、資源ごみとしては出せないという話を聞いたこともある。いったい今はどうなっているんだろうか。私としては原稿類はそのままごみとして出したくない。絵を描く人に聞いたら、半透明の袋の導入で、描き損じの絵が他人に渡らないために、断裁する機械を買ったといっていたくらいである。  紙類をいったいどうしたらいいのか。紙の封筒を資源ごみとして出したほうがいいのか、それとも燃えるごみなのか。彼女は、そこで思い出さなくてもいいのに、 「ビニールコーティングをしてある紙は、どうしたらいいのかしら」  などといいだし、私たちは頭のなかが渦巻き状態になった。そんなことを話しているうちに、結局は、燃えるごみとして出せるのは、生ごみぐらいしかないのではないかという結論に達したのである。  ごみの問題は、都内はともかく、住んでいる地域が違うと、まるで話が合わず、情報交換ができない。都内に住んでいる友だちの、実家がある地域は、ごみを分別しないで、収集しているという。 「半透明の袋だろうが、すけすけの袋だろうが、どうでもいいわ。ごみがたまったら車で持っていって、まとめて実家で捨てるから」  彼女はごみ問題に関しては、全然、気にしているふうもなかった。こういう人はとても幸せである。私なんぞ、ごみを捨てるたびに首をひねっている。そしてうちの近所の小さなスーパーマーケットでは、まだ都推奨とやらの、半透明のごみ袋を置いているところがない。その話を母親にしたら、突然、半透明のごみ袋が、ゆうパックで三百袋も送られてきた。 「手に入らない人に、配ってあげなさい」  と手紙まで入っていた。それが大きい袋ばかりである。単身者や小人数の家庭では、ごみがたまらないうちに、生ごみが中で腐ってしまうだろう。都推奨といいながら、こういう部分は、全く考えられていないのだ。  うちには今、押し入れに紙袋百枚。台所には、黒いごみ袋が約八十枚、半透明のごみ袋が三百枚も積んである。家のなかはごみならぬ、ごみ袋だらけである。こうなったのは、うちの母も問題は多いが、もとはといえば、突然、「ごみ袋を半透明にする」といった東京都のせいである。税金を払っているのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ。私はごみ袋の山を横目でにらみながら、東京都をうらんでいるのである。 [#改ページ]    母のアルバム  両親は、私が二十歳のときに離婚した。当時、事情を知った周囲の人は、 「大変だったわねえ」  といたわってくれたのだが、正直いって私は、ほっとした。母にいつごろから、離婚しようと思っていたかと尋ねたら、 「あんたが生まれてすぐよ」  という答えが返ってきて、私は二十年もそういう思いを胸に秘めていた母に、怖さすら感じていたからである。  私が物心がついてから、両親は喧嘩ばかりしていた。小学校のときに友だちにリサーチすると、 「夫婦喧嘩をしない」  といった子は皆無であった。 「口喧嘩をしたあと、必ず、お父さんがあやまっている」  といった子や、 「ちゃぶ台から、座布団から、家のなかにあるものが、茶の間をとびかう」  といった子もいた。なかには、 「お父さんとお母さんが殴りあって、たいてい、お母さんが勝つ」  といいだす子もいて、 「どの家もなかなかすごいなあ」  と感心した覚えがある。  うちの両親と同じくらい仲が悪いのかと、夫婦喧嘩のときに殴りあう子の家に遊びにいったこともあるが、そのときはお父さんもお母さんも、とても仲よくしていた。どこから見ても、しあわせそうな家族だった。喧嘩のときに殴りあっていても、本当は仲がいいんだと、私は子供心にわかった。それに比べて、そんなすさまじい喧嘩はしないまでも、うちの両親のほうが、はるかに仲が悪いのは明らかだったのである。  その子の両親には、冷え冷えとしたものが感じられなかったが、うちの場合は、ヒューッと北風が吹いているような感じがしていた。たまに仲がいいときがあっても、 「あんなのうそだ」  といいたくなった。仲が悪いのが当然のような、夫婦関係だったのである。  母は私を相手に、 「本当に困ったもんだ」  とぐちをこぼした。私はアンデルセン童話集を読みながら、縫い物をしている母の前に座り、 「ふんふん」  と聞き役になっていた。夫がいろいろなトラブルを起こしても、子供に知らせないように気遣う妻がいるが、私の母は正反対のタイプであった。他人にぐちをこぼさない分、子供の私に、 「ねー、聞いて、聞いて、ひどいでしょ」  と訴えた。たいていは、 「生活費を渡さない」  といった金銭問題だったが、時折、 「どうも浮気しているらしい」  という話もまじった。私はただ、 「ふーん」  と答えただけで、何も感じなかった。できるならば、父には家にいてもらいたくなかったので、家にいたくないのなら、ずっといなくていいから、お金だけはたくさん置いて、出ていってもらいたいと思っていた。しかし世の中は、そううまくはいかず、家のなかで絵を描いていた父は、毎日、母と衝突を繰り返していたのであった。  あるとき母は結婚のときに持ってきた、アルバムを私にみせた。女学校でテニス部に所属していたときの写真や、祖母や姉妹と一緒の写真のなかに、男性二人、女性二人で海に行ったときの写真があった。母はシャーリングのしてある水着を着て、ぶりぶりした太ももを丸だしにして笑っている。 「私はね、この人が好きだったのよ」  母はそういって男性のうちの一人を指さした。この人は大学を卒業して、有名な電気メーカーに就職して……、と母は妙に彼のことに詳しかった。そして、 「この人と結婚していれば、こんなふうにはならなかった」  とため息をついたのである。子供の私から見ても、その男性は穏やかな顔立ちで、みるからに人がよさそうだった。 「どっちが、お父さんだったらよかった?」  母にそう聞かれ、私は迷わずアルバムのなかの男性を指さしたのであった。  その夜、私は布団のなかで、もしも母がその男性と結婚していたら、どうなったかをあれこれと考えた。母は、 「お金がない、お金がない」  と毎日、米櫃《こめびつ》をのぞいてため息をつくこともなく、私も正月恒例の花札で、父に負けてお年玉を取り上げられることもない。それどころかあの人だったら、 「あれが欲しい」  とねだったら、 「よしよし」  とすぐ買ってくれるだろう。肩車だってしてくれるかもしれない。 「あの人と結婚すればよかったのに」  私は、判断を誤った母は本当にばかだと思った。ところが考えていくうちに、それでは私はどうなるのか、という問題に気がついたのである。私の体は父と母の合作である。その父が違う人になると、私は私ではなくなるではないか。私の外見は、納得できるものではなく、 「もうちょっと、美人に生まれたかった」  と親を恨んだが、全然、違う顔になると思うと、やはり複雑だった。そこでいろいろと考えた結果、父を追い出して、母が好きだったあの男性に、新しいお父さんになってもらうのが、いちばんいいことに気がついた。私は母のためにも、自分のためにも、父がどこかに行ってくれないかと願っていた。時折、父は一カ月くらい、私たちの前から姿を消した。何もいわずに、突然、家に帰ってこなくなるのであるが、私たちは心配な反面、ちょっとうれしかった。口には出さねど、 「このまま、ずっと帰ってこなければいいのに」  と願っていたのに、一カ月すると、ふらりと戻ってきた。ほっとしたり、がっかりしたり、そんな日々を繰り返していたのである。  目の上のたんこぶだった父には、「勉強をしろ」などと、こうるさいことはいわれなかったが、家に彼がいるだけで、どよーんと暗い雰囲気になった。家族には不評の父であったが、どういうわけだか、近所の子供たちには評判がよかった。うちには一般家庭にはない、和紙や色紙、絵の具、色鉛筆がたくさんあった。不用になったものをあげると、近所の子供たちはとても喜ぶ。つまり物品で子供たちを釣っていたわけなのだが、 「物をくれる人はいい人だ」  という子供の錯覚が、父を人気者にしていたのだった。  高校生になったとき、家に遊びにきた友だちに、 「お父さん、かっこいいね」  といわれて、びっくり仰天した覚えがある。私はそんなふうに思ったことなど、一度もなかったからだ。それよりも私は、彼女の穏やかな顔をしたお父さんに会うたびに、 「ああ、これが父親というものだ」  とうなずいていた。いくら私がそういっても、 「あーら、何いってんの。あんなゆでたまごみたいなのの、どこがいいのよ」  と彼女はお父さんに対して、厳しい目をむけていた。私はそういった彼女は、たまたま父の顔が好みだったんだろうと思っていた。 「ま、人の好みはいろいろだからな」  と気にもとめていなかったのである。  先日、仕事で昔の写真が必要になり、男女の若い編集者が、アルバムを見にきた。昔と全く変化がない私の顔を見て、彼らは大笑いしていたのだが、たまたま家族で撮った写真を見た、女性の編集者が、 「お父さん、ハンサムじゃないですかあ」  といったのである。のぞきこんだ男性のほうも、 「これは現代にも通用しますよ。髪形も着ている服もお洒落だし」  という。私たちは父が自分のお洒落や趣味にお金をつぎこんだために、辛い毎日を強いられた。それを思い出すと、素直に喜べなかった。苦々しい思いばかりが先にたち、どんなにほめられても、 「ふーん」  としかいいようがないのである。 「うちの父なんか、若いころ、まるで白菜みたいなんですよ。母はわりとかわいかったんですけどね。どうして母が白菜と結婚したのか、わかりません」  彼女はそういった。私は一度、彼女の父上とお会いしたことがあるが、穏やかそうな私の理想の父タイプであった。ゆでたまごだろうが白菜だろうが、家族にとっていい父親であればいいのである。うちのようにお洒落ではあるが、問題が多いタイプは、家族にしたら迷惑この上ない存在でしかない。 「群さんが、結婚しない理由がわかりました!」  彼女は突然、そういいきった。 「子供のころから、身近にハンサムがいると、知らないうちに目が肥えてしまうんです」 「だって、嫌な奴だと思ったことはあるけど、ハンサムだなんて思ったことはないもん」 「それです。お父さん程度の顔でさえ、ハンサムだと思わない。それが問題なんです。群さんは、芸能人や有名人を見て、きゃあきゃあいいませんよね」 「うん」 「それは身近でハンサムを見て育ったからです。うちなんか白菜ですからね。もう、芸能人なんか、誰を見たってうっとりしちゃいますよ」 「ふーん」  私の不幸はすべて父から発生しているようであった。そういえばゆでたまごを父に持った彼女も、暇さえあれば、 「○○さん素敵。××くん、かっこいい」  と胸の前で指を組んでうっとりしていた。しかし私にはそんな経験がないのだ。  もしかしたら、母はあれこれ文句ばかりいっていたが、父の性格など考慮せず、見てくれだけで選んだのではないだろうか。それにしては、私が生まれた直後に離婚を決意したというのは、早すぎるような気もする。そのときのことを詳しく聞こうとしても、母はいつも口が重かった。私は不思議でたまらなかったのだが、つい最近、その謎がとけたのである。  パスポートを更新するために、戸籍抄本を取り寄せて何気なく眺めていたとき、妙なことに気がついた。たしか子供の出生届けは、生まれた日から十四日以内だったと思うが、何と私の場合は、生まれてから出生届けを出すまでに、三カ月半も間があいている。つまり、生まれてから届けが出されるまで、私には戸籍がなかった。生まれているのに、水子みたいな扱いになっていたのである。  この事実を知って、母が私を産んだ直後に、離婚を決意した理由がわかったような気がした。父はできれば、子供を産んだ母を捨てて知らんぷりをしたかった。だから私の出生届けをいつまでも出さなかったに違いないのだ。 「何という奴だ」  これが男としての態度であろうか。私はいくら他人に、父がハンサムだとほめられようと、三カ月半の間、水子扱いされたことを考えると、また、彼に対する憎しみが、ふつふつと体の底からわきあがってきたのである。 [#改ページ]    気がつけばひとり  世の中には、いろいろな男性がいるなと感じるのは、女友だちから付き合っている相手の話を聞いたり、当の彼と会ったりしたときだ。電車のなかや人込みを眺めていると、そこにいる男性たちは、そう大差はないと思えるのに、実際は、 「そんな男性がいるのか」  と、よくも悪くもバラエティに富んでいるのである。  私の小学校からの友だちが、大学生のときに交際していた同級生は、今から二十年以上も前に、アルバイトもせずに、月に二十万円も仕送りしてもらっているような奴だった。私は彼女に彼を紹介されたとき、そういう男でも、外見がいいとか、性格がいいとか、才能があるとか、何か取り柄があるのかと期待したのだが、なーんにもない男であった。彼女は彼との交際を続けようかどうしようか悩んでいた。もちろん彼はそんなことは知らない。彼と会ったあと、彼女から彼の感想を聞かれて、 「やめたほうがいいんじゃないの」  といっておいたが、彼女は彼に未練があるような気配だった。  その後、彼女は彼と結婚し、二年後に離婚した。学生時代、彼はあれだけ仕送りをしてもらっておきながら、それでも遊ぶ金が足らず、彼女に質屋通いをさせ、そのうえ中絶までさせていた。私はあとから知った事実に愕然とした。彼という人間も理解できなかったが、そんな男と結婚する気になった彼女も理解できなかった。よく考えればわかりきったことなのに、どうして不幸になるほうへ、不幸になるほうへといってしまったのか、首をかしげるばかりだったのである。  社会人になって、高校時代の友だちの彼にも会ったことがある。彼女たちは社内恋愛だった。彼は話をするよりも、ラジオの競馬中継のほうが気になるらしく、イヤホーンを耳の穴にいれたまま、ひとりの世界にひたっていた。彼女がむりやり連れてきたのかと思ったが、彼女はそんなことをするタイプではない。あとでよく話を聞いたら、彼が友だちに会いたいというので、しぶしぶ連れてきたら、ああいう態度だったのだといっていた。またまた私の頭には、 「なぜ」  という文字が浮かんだ。明らかに彼は、迷惑そうな態度がみえみえだった。身を乗り出してしゃべる男も嫌だが、みんなでいるのに、ひとりの世界にひたりきるのも嫌だ。 「それなら、なぜ、やってきた」  と彼にいいたくなった。その後、二人は別れた。彼は別れ際に、 「お前みたいに、大学をでている女は大嫌いなんだ」  と捨てぜりふを吐いたという。 「はあ?」  私たちはこの話を聞いて、 「何だこりゃ」  とあっけにとられた。その会社に入社してくるのは、大卒の女性ばかりなのだから、そんなことは最初からわかりきっているはずなのだ。 「大卒が嫌いなら、付き合わなきゃいいのにねえ」  私たちは、わけのわからない男だと、彼の悪口をいいまくったのであった。  恋愛が終わると、 「あれは、まずかった」  と気がつくが、その最中はどういうわけだか、まずい部分が見えない。他人の恋愛の噂を聞いて、 「ああ、それはお似合いね」  というよりも、 「えー、どうしてあの人と、あの人が?」  とびっくりするほうが、より楽しい。それも片方が、まずい部分が多いと思われる人物であったらなおさらだ。それによって、友だちが不幸の道を歩むのがみえみえだったら、それとなく注意をよびかけるが、私とは無関係な二人の場合は、 「ふっふっふ、これからどうなることやら」  と今後の展開がものすごく楽しみになってくるのも事実なのである。  あるとき、ある男性がある女性と交際しているという話を聞いた。男性のほうはともかく、女性のほうは、 「えっ、どこがいいの」  といいたくなるようなタイプであった。すべてにおいてだらしがなく、ぐにゃぐにゃしている感じがする。自分はその有名な会社の社員という肩書きがあれば、みんなにちやほやされると勘違いしている、トホホ女だったからだ。 「どうして彼が、ああいう女を好きになったのかねえ」  自分の嫌いなタイプの男性が、嫌いなタイプの女性と付き合っても、 「嫌われ者同士でうまくやれば」  と放っておくが、そうではない場合は、気にいっている人のほうまで、情ない人間に思えてくるのである。  同性の友だちの場合は、似たタイプが集まることが多いが、恋愛となると、自分が気にいっている人同士がうまくいくとは限らない。確率としてはそのようなケースのほうが、ずっと少ないような気がする。とってもまじめで、仕事もできる好青年が、歩きながら女の情念を垂れ流しているような女性に翻弄されたり、とっても性格のいい女性が、とんでもない男性と付き合っていたりする。そういう二人の姿を見たり、話を聞いたりするたびに、男女関係においては、ほとんど幼稚園児程度の経験しかない私は、この不思議さに、 「うーむ」  とうなるしかないのである。  先日、若い女性に、 「男の人に殴られたことはありますか」  と聞かれた。私は女を殴る男は大嫌いだ。私は男性を殴ったことはないし、殴られたこともない。 「もしも殴られたら、百倍にして返す」  というと、彼女は、 「ひえーっ」  と怯えた。 「当たり前じゃないの。そんなこと許されるわけないじゃない。結婚していたとしても、相手に殴られたら、さっさと家を出るね」  私はいいきった。すると彼女はうつむいて、 「私、よく殴られるんです」  というではないか。びっくりして、 「どうして、そんな男と付き合っているのよ」  と怒ると、当人は、 「ふざけてるんじゃないかしら……」  などと呑気なことをいうのである。ところが話を聞くと、それはふざけているといった程度のものではなく、明らかにストレス解消のために、彼女を殴っているとしか思えなかった。ふざけて往復びんたを何回もするだろうか。とにかく喧嘩をする理由もないのに、彼女に手を上げる。いちおう友だちとして、 「それは、まずいんじゃないの」  といった。 「そうですか……」  彼女は納得しかねる様子であった。私のほうが頭にきて、そんな男は最低だ、もう付き合うのはやめろ、あなたはだまされている、とわめいても、 「でも、ちょっとふざけていただけだと思うんですけど」  と彼を弁護するのだ。彼のほうは殴って気持ちがよくなり、彼女のほうも殴られて気持ちがよくなるタイプなのだったら、私は口をはさむ立場にいないが、彼女は殴られると、 「痛いし、ちょっと困ったな」  と思うのだそうである。それなら相手にちゃんといえばいいのに、どういうわけだか、彼女はいえないというのだった。  私の周囲には、彼に殴られても何もいえない女性だけでなく、その逆で、絶対に男性のいいなりにならない女がいる。彼女は自分の意見をはっきりいう女性である。 「恋の奴隷」の歌詞みたいに、 「あなた好みになるわ」  というような甘いタイプではない。いいたいことはいうし、相手が間違っているとなると、面とむかって何時間でも話しあう。これがうまくいけば、丁々発止と渡りあい、お互いを高めあう、アカデミックな関係になるはずなのだが、残念ながら男性を見る目もないものだから、ほとんどの相手は聞く耳を持たず、 「どうして女のお前にそんなことを、いわれなきゃならないんだ」  と去っていく。去らない男性は、彼女のいいなりになって、嵐が過ぎ去るのをじっと待とうというタイプである。しかし彼女はそんな、議論もできない彼に嫌気がさして、 「もう、連絡しないで!」  といって関係を断ち切る。どちらにせよ彼女の恋愛はいつも短期間で終わるのである。  どうしてこういうことが起きるのだろうかと、既婚の友だちと話した。いい性格の人は、いい性格の人と出会って、幸せな人生を歩んでもらいたい。それなのに、そのようにはならない。 「結局、男性を見る目のない女性は不幸になるわよね。いちばん不幸なのは、見る目がなくて男のいいなりになる女。その次が、見る目がなくて、男のいいなりにならない女。あの人たちも私たちみたいに、男性を見る目を養わないとね」  友だちは胸を張ってそういった。私が、 「私は見る目があって、付き合ったら男の人のいいなりよん」  といったとたん、彼女にどつかれた。 「あなたが、そんなわけないじゃない」  続けて彼女は、男性を見る目があって、いいなりにならない自分の結婚生活が、どんなにうまくいっているかを述べた。たしかに彼女の夫は、今どきめずらしいくらいの人格者である。それを聞いた私は「でも、あなたの旦那さん、陰で、『どうしてあんな女と結婚したんだ。まだ目を覚まさないのか』っていわれてるよ」という言葉が、喉まで出かかった。しかしぐっとそれを飲み込み、 「あーら、そうなの」  とへらへら笑っていたのであった。  周囲では、 「ああいう人と付き合って、不幸になるに決まっている」  と意見が一致しているのにもかかわらず、当人だけが不幸と感じていない場合が多い。他人から見て不幸と思えることを、幸せだと感じられるのは、当人にとってはいちばん幸せなのだ。私のところには、さまざまな男女の噂がとびこんでくる。なかには、 「なんで、あんな奴と、あの人が」  といいたくなることもある。だけど傍《はた》の目はどうあれ、当人がいちばん幸せに思えることがいちばんいいのかもしれない。  思えば私は人の色恋沙汰ばかりに、きゃあきゃあいっていた。このままだと、ふと気がついたら私だけ、ひとりぼっちで、取り残されるような気がする。これからは、人のおせっかいをやくよりも、私の「男性を見る目」を活かし、人の口の端にのぼるような恋愛をしようと、決意したのである。 [#改ページ]    おばさん百態  私は高校生のときに、よくロック系のコンサートに行っていたが、卒業してからは、足が遠のいた。自腹を切って見にいったのはロッド・スチュワートくらいである。そこで驚いたのは、来ている人たちの多様さであった。ロッド・スチュワートのように芸歴が長いと、初期のファンは私よりも年上になる。いかにも中堅サラリーマンといった感じの人たちが、スーツ姿で、 「おーっ」  とこぶしをふりあげ、大声を上げているのを見ると、「蘇る青春」などという言葉が頭に浮かんだりした。また、興奮して抱っこしていた赤ん坊をふりまわす若いお父さんもいたりして、微笑ましく思った覚えがある。  それから約十数年間、私はコンサートとは縁のない生活を送っていた。ところが去年の年末、友人が、 「チケットがあるんだけど、都はるみのコンサートに行かない」  と誘ってくれた。これまで私が興味を持って行ったのは、ロック系のミュージシャンばかりなので、最初は、 「えっ」  と思ったのだが、一回くらい、歌謡曲、演歌系のコンサートを見ておくのも悪くないと、行くことにしたのである。  私はその友人から、一九九一年の彼女の日生劇場のコンサートが、どんなにすごいものだったかを聞かされていた。あまりのすごさに、幕が降りても、席から立てなかったのだそうだ。友人はもともと都はるみのファンではなかった。日生劇場のあとも、特別、熱狂的な彼女のファンになったわけではないが、「無視できない人」として、できる限り、彼女のコンサートに足を運ぶようになったといっていた。私はそんなにすごいコンサートを見たいと思い、久しぶりの武道館に足を運んだのであった。  高校生のときに、少なくとも月に一度は足を運んだ、武道館に通じる道には、ダフ屋のおじさんがいっぱい並んでいたものだった。ところが今回は、私が見た限り、それらしきおじさんは一人もいない。ロック系のコンサートのときは、ホットドッグやアイスクリームの屋台が並んでいたと思うが、今回は焼きそばや、肉まんの屋台がでていて、おばさんたちが背中を丸め、立ったままむさぼり食っていた。そして武道館の中に入って席に座ったとき、あまりの平均年齢の高さに、私は唖然としてしまったのである。  館内は見渡す限り、おじさん、おばさん、じじ、ばば、ばかりであった。グレー、あずき色、ぼたん色、といった色合いが目につく。武道館が公会堂になったような雰囲気である。なかには娘らしき人に手をひかれた、歩幅十センチくらいのおじいさんが、アリーナ席を歩いていた。ふと横に目をやると、五人連れのおばさんが、最近の不景気を嘆きながら、お弁当を食べている。 「あたし、これ、嫌いなの。あなたにあげるわ」  おかずの揚げ物が右にいったり左にいったりしていた。 「うーむ」  若者が多い会場では、まずこんなことはありえない。少なくとも私が行ったコンサートでは、席でお弁当を食べる奴など、見たことはなかった。 「あーら、ここよ、ここよ」  背後で大声がした。 「えっ、そうなの」 「そうよ、ここでいいのよ」 「やーね、老眼だから、よく見えなかったわ」 「まあ、若くみえても体は正直ねえ」  お決まりのせりふがひととおり終わったあと、おばさん六人組が私のすぐ後ろの席に座った。座ったとたんに、手にしていた缶コーヒーや、ウーロン茶を飲み、 「あー、温かい」  とくつろいでいた。そのとき、 「うわっ」  という小さな声が聞こえた。どうしたのかなと気にはなりつつも、そのままじっとしていると、私の背中のあたりを触る気配がする。ふりかえってみると、おばさんがハンカチを手に、私の顔を見ないようにして、私の座席の背もたれを拭いていた。背もたれにコーヒーがこぼれ、茶色い液体がだらーっと流れている。もうちょっとでシートに達するところだった。ひとこと、 「ごめんなさい。こぼしちゃって」  といえばいいのに、おばさんは気がつかないんだったら、このまま何もなかったことにしちゃおう、というような態度で、こそこそと後始末をしているのだった。  私は腹のなかで、「あーあ」とつぶやきながら、友人が来るのを待っていた。若者のコンサートでは、まだかまだかという感じで三十分前には、ほとんど席が埋まるのに、十五分前であちらこちらに空席が目立つ。こんなことで武道館が満席になるんだろうかと、心配になったくらいである。そのとき友人が女優さん二人と一緒にやってきた。それを周囲のおばさんたちが見逃すはずがない。 「ま、見て見て。ほら、あの人たち。まー、こんなところで会えるなんてねえ」  と背後で声がする。なかには、 「ほれ、ほれ」  といいながら、隣の席の人に、順おくりでひじでつついて教えているおばさん連中もいた。そして周囲のおばさんたちの顔は、都はるみのコンサートに行って、そのうえ有名人を見たという得した気分で、ぱっと輝いていたのである。  五分前、席はほぼ埋まった。いよいよ開演である。都はるみが振り袖姿で登場し、スタンドマイクを持って歌い始めた。 「あらー」 「んまあ」  おばさんたちの感動の言葉がもれる。都はるみが何かをするたびに、 「あらー」  が口から出るのだ。  歌を盛り上げるため、纏《まと》いを持った人々が舞台に上がると、 「んまあ」  とおばさんたちの声があがる。絶対、おばさんたちは、そういうリアクションをするなと、想像していたとおりになるので、私はうれしくなってしまった。花火が上がれば、 「わあっ」  とのけぞって驚き、都はるみが、 「私も東京に出てきて、三十年になりました」  と挨拶すると、また、 「んまあ」  と声があがる。すべて決められていたかのようなリアクションなのだ。  私みたいなお気楽なひとり者と違い、家庭を持っているおばさんたちが、家計をやりくりしてコンサートに来るのは、大変なことだろう。よっぽど好きでなければ、わざわざ足を運ぼうとはしないはずである。それは若者のコンサートと同じで、開演前は弁当を食べていようが、まんじゅうを食っていようが、コンサートが始まったら、のめりこむのではないかと思っていた。ところが、静かな曲になったとたん、あちらこちらで私語が聞こえる。何を話しているんだろうと聞き耳をたてていたら、 「あそこの奥さん、株やってるんですってよ。この時期に、ばかよねえ」  などと噂話をしているのだ。ロックコンサートでこんなことをやったら、 「おまえ、ファンじゃないのか」  と、へたをすれば追い出されかねない。目の前に生身の都はるみが歌っているのに、都はるみの歌を聞きたくてやってきたはずなのに、隣のおばさんとの私語のほうに熱心になってしまう。ほとんど、家でテレビを見ているのと同じ感覚らしい。  都はるみが歌っていてもそうなのだから、それ以外の人が舞台に登場すると、おばさんたちの態度はますます冷たくなる。ステージでは、都はるみの休憩を兼ねて、バックバンドの人たちが、ギタリストはギターテクニックを、ベーシストはベーステクニックを披露しているというのに、おばさんたちは待ってましたとばかりに、次々に席を立つ。アリーナ席に陣取っているおばさんたちでさえそうなのだ。私の周囲でも何人ものおばさんがいなくなった。そして戻ってきたと思ったら、大声で、 「男性用はすいてたからさあ。そっちに入ってきちゃったわよ、どはははは」  などと笑っている。私たちはあまりのことに、あっけにとられていた。  コンサートの後半は、レーザー光線が使われた。もちろんおばさんたちは、 「んまあ」  と声を上げて感心していた。そんななかで上品なおばさまが一人いた。たった一人で来たらしく、終始笑みをたたえてステージを見て拍手しているのであるが、両手がおでこの位置から下がることはなかった。 「ほーら、はるみちゃん、私はここでこんなに拍手しているのよ」  とアピールしているかのようであった。  二時間はあっという間にすぎ、アンコールになった。ここで私は最後にショックを受けた。終わっていないのに、帰り始めるおばさんたちがいたからである。 (ま、まだ、都はるみは、舞台で一所懸命に歌っているぞ)  私の腹の中の叫びもとどかず、着脹れしたおばさんたちは、ぞくぞくと出口を目ざして歩いていった。 「それでおばさんは、ファンなの?」  といいたくなった。そそくさと帰るおばさんたちの姿を見ながら歌う、歌手の気持ちはさぞ複雑だろう。それともこういったコンサートでは当たり前で、歌手のほうも慣れっこになっているんだろうか。  九時前にコンサートは終わった。ロック系と違い、アンコールの拍手が鳴り止まないということはない。 「はい、おわりっ!」  という感じのスパッとした終わりかたである。私は友人たちと、 「あー、終わったねえ」  といいながら、伸びをしたついでにふと後ろを振り返った。私の目に飛び込んできたのは、見渡す限りの空席だった。たった今、終わったばかりなのに、私たちの後ろの席に座っていたおばさんたちは、余韻を楽しむこともせず、とっとと姿を消していたのである。  私はあまりに割り切りのいい、おばさんの行動に唖然とした。早く帰らないと電車がなくなるとか、風呂をわかし直さなきゃならないとか、事情もあるだろうが、 「せっかく歌を聞きにきたのに、そんなにせわしなくしなくてもいいじゃないか」  といいたくなった。本来の目的である歌のほうであるが、やっぱり「涙の連絡船」はすごかった。この一曲が聞けただけでも、コンサートに行ってよかったと思った。しかしそれ以上にすごかったのは、おばさんたちの姿で、帰り道の私の頭のなかには、あでやかな都はるみの姿よりも、強烈なおばさんたちの姿が渦を巻いてしまったのであった。 [#改ページ]    非情のナンパ運ふたたび  私は中学生のころから、友だちが、 「きのう、ナンパされちゃった」  などといっているのを聞くと、不思議でならなかった。私にはそんなことなど、起こりもしなかったからである。今はどうか知らないが、当時は女の子の二人連れがいちばんナンパされやすいといわれていた。声をかけてくる男の子も二人連れだ。一対一だと警戒するけれど、友だちがいると、一人じゃないから、ついていってもいいかという気になる。男の子のほうも、自分一人では声をかける勇気はないが、友だちがいると気が大きくなるというわけだ。  高校一年生の春休み、私は、別にナンパされたいという下心もなく、友だちと新宿を歩いていた。彼女は別の高校に通っていて、久しぶりにデパートめぐりをしていたのである。夕方の六時になり、そろそろ帰ろうかと、駅に向かって歩いていると、 「あの、ちょっと」  と声をかけられた。そこにはABCのランクでいうと、Aの下といったところの男の子二人が立っていた。 「これからどうするの? ちょっとお茶でも飲まない?」  そういいながら二人の男の子の目は、私の友だちに注がれていた。彼女は背がすらっとしていて、目はぱっちりと色白。性格もおとなしくて控え目だ。突然、声をかけられて、びっくりした彼女は、ただでさえ大きな目を見開いて、棒立ちになっていた。私は腹のなかで、 (とうとう、きた)  と思った。そしてナンパをする男の子は信用できないから、断ろうと考えつつも、彼らの視線がまったく私と合わないのに、ちょっとむっとしていた。 「どうしよう」  彼女は困った顔をして、私にいった。 「うーん、私は帰るつもりだけど……」  そういったとたん、彼らは待ってましたとばかりに、 「あっ、そう、そうなの。じゃ、この人は帰るということにして、きみは僕たちと一緒にくればいいよ」  とにこにこした。 「でも……」 「ね、いいじゃない、ねっねっ」  彼らは彼女を両側から、かかえんばかりにした。そしてそんな三人を、私は伊勢丹の紙袋をぶら下げて、ぼーっと眺めていたのである。 「どうしよう」  彼女はまた私に聞いた。このナンパにはまるで関係ないと判断した私は、 「帰る」  といいきった。するとまた男の子たちは、 「ほら、この人は帰るっていっているんだから、いいじゃない。一時間くらいならいいでしょ。一時間がだめなら、三十分でいいからさあ」  とうれしそうな顔をした。 「どうしよう」  彼女は控え目なのと同時に、物事をてきぱきと決めるのが苦手であった。らちがあかないので、私は、 「帰るよ。どうすんの」  と彼女に迫った。いつまでも彼女は、もじもじしていた。 (あー、じれったい!)  私は頭に血がのぼり、 「じゃ、帰る」  といって、駅に向かって歩きだした。 「ほら、ねっ、もうあの人は帰っちゃったから、僕たちとお茶を飲もう」  背後で男の子たちの声がした。しかし彼女は、 「私も帰ります」  といって彼らの誘いを振り切ってやってきた。 (やっぱり男の子よりも、友情を大切に思ってくれたのね)  内心うれしかったが、電車に乗っている間、彼女は、 「二人とも、ちょっとかっこよかったなあ。ついていけばよかったかなあ」  とずーっとひとりごとをいっていた。 「じゃあ、ついていけばいいのに」  そういうと、彼女は、 「だって一人じゃ、嫌だもん」  という。そしてしばらくは、黙っているのだが、また、 「でも、あの子、かっこよかったなあ」  と繰り返す。私は頭にきて、こいつとはもう二度と、盛り場を歩くのはやめようと思ったのだった。  それから一年ほどたって、アルバイトの帰りに、駅で切符を買おうとしていると、 「すみません」  と男性から声をかけられた。声のしたほうを見ると、そこには背の高い、Tシャツ姿のちょっと暗い感じのやせた男の人が立っていた。もちろんついて行くのはやめようと決めていた。 (とうとうナンパされたか。人は正反対のタイプを好むっていうからね)  と思いながら、私は彼の次の言葉を待っていた。お茶でも飲みませんかといわれたら、こういおう、と頭のなかで返す言葉を考えていたのだが、彼は私の目の前にすっと右手を出し、 「お金、ちょうだい」  といった。彼は、 「お金がなくて、帰れないから。お金、ちょうだい。五十円でも百円でもいいから」  ともう一度いった。私は黙って、百円玉を彼の掌にのせて、その場を立ち去った。再会を望むのならば、住所か電話番号を聞こうとするだろうが、彼は百円玉を握りしめて、あっという間に姿を消し、急行電車にとび乗って去っていった。  切符売り場には、たくさんの人がいた。私よりももっとお金を持っていそうな、おじさんやおばさんもいた。しかしどうして私のところにきたんだろうか。きっと金をねだっても、断らないと思われたに違いない。私はそう思われたことの喜びよりも、そんなことでしか男性が声をかけてこないという現実に腹が立ち、しばらくの間、胸くその悪い思いをしたのである。  私を正しい意味でナンパした第一号は、おやじであった。社会人になってからのことだが、ちょっと、夜帰るのがおそくなると、半分、酔っ払っているようなおやじが、音もなくすり寄ってきて、 「ねえ、おじさんとお茶を飲みにいかない」  と耳元でささやいたりした。 「歌手の○○に似てるねえ。ねえ、そういわれない?」  とにたにたしながらくっついてくる。 「いわれない!」  歩いていこうとすると、またしつこく、 「ね、どうして怒るの。僕に気があるから」  などととんちんかんなことをいって、すがりついてくる。これは完璧に無視するしかないと、小走りで逃げてくると、やっとおやじの姿は見えなくなった。いったいどこへいったのだろうかと、物陰から見てみると、彼は自分の目の前を通る、若い女性みんなに声をかけては、嫌われていた。このときも、あんなおやじに誘われたと、気分が悪くなった反面、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」の、おやじの鉄砲だまが当たってしまった自分が情なくて、帰りの電車のなかでは、いいようのない怒りが、私の体のなかに充満していたのである。  OLをしていた三十歳までの間、私をナンパしてきたのは、九十九パーセント、おやじであった。おやじというのは、 「おじさんは寂しいんだ」  という言葉を前面に押しだしつつ、目をみると、こちらの様子をちゃっかりとうかがっている。なかには突然、私の前に立ちはだかり、 「やろう! 金はある!」  と宣言したおやじもいて、びっくり仰天したこともある。たった一人、若い男の子がいたが、彼は自分の体を提供するから、お金が欲しいといった。珍しく私がスーツを着ていたものだから、お金があるように見えたのだろうが、 「私、お金持ってないわよ」  といったら、 「じゃ、いいです」  といって即座に姿を消した。声をかけてくるのは、歳が下だったらなんでもいいおやじと、お金をくれれば誰でもいいと思っている若い男性しかいなかったのだった。  三十歳を過ぎてから、全くそういうことから縁がなくなり、ナンパの三文字は私の人生には関係なくなったと思っていた。別にそれで腹が立つわけでもなく、渋谷で女の子をナンパしている男の子たちを見ると、 「おー、やってる、やってる。若いもんはいいねえ」  などといっていたのである。  ところが先日、十何年ぶりかで、ナンパされてしまった。そのとき、私は夜六時ごろ、寒風吹き荒ぶ、ソウルの繁華街を友だちと歩いていた。男女含めて、六、七人だったのだが、みんな買い物をしたり、店をのぞいたりして、てんでんばらばらに歩いていた。私はあとからくる友だちを待とうと、道路ぞいのバッグや靴を売っている店の、ショーウインドーをのぞいていた。すると私がウインドーを見ているというのに、私の前を横切った男性がいた。ウインドーと私の間は三十センチくらいしかなかったため、私は思わず、二、三歩|後退《あとずさ》りした。しかし、人出がとても多かったこともあり、ソウルではウインドーを見ている人の前を横切る歩きかたもあるんだろうと、気にもとめていなかったのである。  そろそろ友だちもやってくるかと、目を上げると、見覚えのある服の人が私の目の前に立っていた。さきほど、私の前を横切った男性であった。年齢は二十歳くらいの体格のいい青年である。どうしたんだろうかと見ていると、彼は、 「ショクジヲシマショウ」  と日本語でいう。 「友だちと一緒なので……」  と断っても、彼は、 「ワタシハ、アナタヲ、アイシテイマス。ダカラ、ショクジヲスルノデス」  というのである。何度、友だちがいるからと断っても、彼はしつこく繰り返す。もしかしたら彼の母親と私はたいして歳が違わないかもしれない。あんまりしつこいので、「私の本当の歳をいうたるぞ」といいたくなったが、脈がないとわかったのか、しばらくして彼は去っていったのだった。  きっと彼は、ナンパの成果があがらないまま、夕方をむかえてしまったのではないだろうか。最初は、スタイルもいい美人を狙っていたのだが、時がたつにつれてだんだん条件を下げざるをえなくなった。日も落ちてきたうえ、あまりの寒さで尋常な判断ができなくなり、しまいには私みたいな、ちんちくりんの中年女でもよしとしてしまったような気がする。  私は十何年ぶりかでナンパをされたといううれしさよりも、その自分の息子みたいな歳の青年が、気の毒でならなかった。そして、ナンパをするなら、的確に人の年齢を判断する術を身につけたほうがいいぞと、遠ざかる背中にむかってつぶやいたのだった。 [#改ページ]    雀鬼への道程  今年になって麻雀を始めた。私は学生時代から麻雀を覚えたくて仕方がなかった。二十年以上前は、授業に出てこない男の子のクラスメートのほとんどは、アルバイトをしているか、大学近くの雀荘にたむろしていたものだった。私が麻雀を覚えたいというと、彼らは、 「じゃあ、後ろで見ていればいいよ」  と、連れていってくれた。雀荘の壁には「国士無双 ○○○○」「大三元 ××××」などと、人名を書いた紙が貼ってあった。あれは何かと尋ねると、難しい役で上がった人の名前が書いてあるという。そしてそのなかに、私のゼミの教授の名前を発見し、心底、びっくりした覚えがある。  私はある男の子の後ろに座り、必死に雀卓を見つめていた。見るものすべてが初めてで、何が何やらわからない。 「そこのドラ焼きみたいなの、なあに」  そういったとたん、彼はぎょっとしてふり返り、 「これは一なの」  と小声でいった。別の牌には鳥が描いてある。 「ねえ、その鳥はなあに」  他の三人はげらげらと笑いだした。彼は黙ったままだ。もう一度、 「ねえ、その鳥は……」  と聞いたとたん、 「うるさいなあ、もう帰れ」  と彼に怒られてしまった。他の三人は、 「もっと喋ってくれて、いいんだよ」  と引き止めてくれたが、私は追い払われた悔しさで、 「二度とあいつらに麻雀を教わるもんか」  と心に決めた。OL時代も麻雀を覚えるような機会はなく、今年になってやっと、知人から余っている麻雀牌をもらい、麻雀への第一歩を踏み出したのである。  麻雀の初心者三人が集まって、最初に教えてもらった麻雀の役は、ピンフとタンヤオである。麻雀は東場から始まるということも教わった。実践もした。しかしそこで私は、自分はただ楽しく、みんなと麻雀ができればいいというタイプではないことがわかった。自分も初めてなのに、他の人がどの牌を切るかで、「うーん」と考えこんでいると、腹のなかで、 (とっとと、やらんかい)  と叫んでしまう。教えてくれた人は、 「みんなで楽しく遊ぶのだから、やる人を選べ」  といった。たしかに嫌な奴とはやりたくないが、お友だちの楽しいだけのなれあい麻雀は嫌だ。私はそのときから、 「勝てる麻雀を覚えたい」  と思うようになったのである。  それから一週間ほどたって、友だちの女性の作家のSさんと、同じく友だちのNさんが、麻雀歴の長い男性二人と麻雀をやるというので、私もおじゃま虫で参加した。参加といっても、何年もやっている人の麻雀はどういうものかを見学するためである。そこで私は目のうろこがぼろぼろと落ちた。麻雀には東場の次に、南場があること。ポンは白、発、中、以外にもでき、チーというものがあること。教えてもらっていないことばかりであった。  ここで私はみなさんの温情で、かわりばんこにメンバーの背中に、背後霊のようにへばりつき、一緒に打たせてもらった。ところが牌を並べていると、いらない牌ばかりが目につき、ツモる前に捨ててしまう。そのたびに、 「捨てる前に、ツモるの!」  とSさんに怒られた。実はツモるという言葉さえ知らなかったんである。それを何度もやって怒られた。みんな、ちゃっちゃか、ちゃっちゃか、よくできるなーと感心して見ていると、 「ホラ、お姉ちゃんの番だよ」  と指摘される。山のように罵声を浴びないと、物事というのは身につかないというのは本当なのだった。  へたくそはへたくそなりに、上がりに近づいてくると、胸がどきどきと高鳴ってくる。もうすぐだとうすうす感じる。それだけはわかる。しかし複雑な待ちになっている場合、いったいどれが上がり牌だか、自分でもわかんなくなってくるのである。私は何度も、上がり牌を見逃しそうになり、組んで打っていた人に、「ロン」といってもらった。そこで初めて、 「ああ、あれもそうだったのか」  と納得する体たらくである。隣の人に、 「それ、もしかして、ロンじゃないの」  と他の人が捨てた牌を指さして、教えてもらったこともある。 「あっ、そうそう。そうだ!」  といいながら、 「どうしてわかったんだろう」  と私は不思議でならなかった。  Nさんと組んで打っているとき、私たちは見事に上がった。 「わあい、ロンだよ」  と喜んで牌を見せたら、他の三人が口々に、 「あー、フリテンだ、フリテンだ」  と指をさして騒ぎ始めた。 「えっ、フリテンってなあに」  びっくりして、Nさんにたずねると、彼女は、「うー」とうめきながら、つっ伏してしまった。 「お姉ちゃんは初めてなんだから仕方ないけど、どうしてあんたが、そんなことすんのよ」  Sさんが怒ると、Nさんは、 「だって、振り込んじゃいけないと思って、みんなの捨て牌は見てたけど、自分のは見てなかったんだよう」  と半泣きになった。そこで私は、麻雀には世にも恐ろしいフリテンというルールがあることも知ったのである。その麻雀に参加して、私の知識は、役やルールを把握するために、百万歩の道程が必要だとすれば、そのうちの一歩程度であることがわかった。こんなことでは、いつまでたっても上達しない。そこで私は心をいれかえて、これからは空いている時間の大半を、麻雀に費やすことにしたのである。  以前、買った、西原《さいばら》理恵子さんの『まあじゃんほうろうき』を再び取り出し、毎日、読みふけった。買ったときはまだ麻雀を知らなかったので、よくわからなかった部分も多かったが、自分が麻雀を始めると、主人公のりえこちゃんの姿は、まるで自分のことのように思えて、涙がにじんでくる。 「そうなのよ。そうなのよねえ」  とうなずきながら、 「西原さんだって、こんなところから始めて、今ではバンバン打てるようになったんだから、私もがんばれば、何とかなるわ」  と勇気がわいてきた。  とにかく実戦で揉まれなければ、うまくならない。しかし時間はなかなかとれない。そこで私はファミコン麻雀のソフトを買ってきて、毎日、テレビ相手にやっている。ところがこのファミコン野郎が、なかなか勝たせてくれない。いい調子で点数の高い役ができつつあり、「ふっふっふ」とほくそ笑みながら、リーチをかけて牌を切ったとたん、誰かの「ロン!」という声がスピーカーから響き渡る。そして、ちゃんちゃかちゃーんと音楽が流れ、私の点棒はどんどん減っていく。腹わたは煮えくりかえるばかりである。 「てめえ、そんなことで、いいと思ってんのかよお」  思わず画面にむかって叫んだことも、一度や二度ではない。それなのにファミコンの麻雀相手は、非情にも私の夢を打ち砕き、破産に追い込んでくれるのだ。  最初、ファミコン麻雀でリーチがかかると、私は、 「けっ、逃げるもんか」  といい捨てていた。捨て牌からあたり牌を推測できる能力なんかないもんだから、ただ自分のいらない牌をどんどん捨てて、バンバン自爆した。なるべく振り込まないように、逃げる方法もあるけれど、ファミコンの場合、私はどうもそういうことができない。敵に背中を見せて逃げるのが嫌なのだ。が、実戦ではやっぱりちょっと怖いので、後退りで逃げる方法を学びたいのだが、どうやっていいのか、まだわからないのである。  麻雀の本とファミコンの二本立てで、過ごしていた私に、三月に入ってから、Nさんから「挑戦状」が届いた。 「麻雀はみんなに痛めつけられなければ、うまくならない。雀荘でやろう。お前も一人で打つんだ! 待ってるぞ」  と書いてあった。私は、ついつい、 「やるっていうんなら、やってやろうじゃねえか。そのときになって、おたおたするんじゃねえぞ」  と返事を書いて送った。内心、私は、 (ひえーっ、どうしよう……)  と怯えていた。とにかく前のときは、背後霊として参加しただけだから、打ったとはいえない。でも今度は、一人でやらなきゃならない。何も訓練していないのに、突然、エベレスト登山に連れていかれるようなものだ。しかしこれも人生の試練と思い、指定された雀荘へとむかったのである。  参加した男性二人は温厚で優しく、 「群さん、僕にあたらないでね」  といってくれているのに、クソ女のNは、私の手がちょっとでも遅れると、 「とっととやらんかい、このクソあま」  といって、私の首を絞めようとする。そんな彼女の妨害を振り切りながら、自分の捨て牌を見ると、自分の手よりもそっちのほうが揃っていたりして、がっくりきた。おまけにのっけから大切な牌を捨てているのに気がつき、くくーっと悔やみながら、 「帰ってこいよー」  と叫んだりした。結果は、うるさいクソ女は、結構、上がっていたものの、役満、満貫に振り込んでしまったのでビリ。私は運よくブービーであった。  麻雀はやればやるほど奥が深い。今の私の頭のなかは麻雀で一杯である。役はひととおり覚えたものの、鳴くと成立する役がどれだったか、すぐ忘れてしまう。私は自慢ではないが、今年になって、文芸書は一冊も読んでいない。すべて麻雀の本ばかりである。うちの母に、麻雀をやってるといったら、 「えっ」  といったっきり絶句した。そんなことするのはやめなさいといわれるかと思ったら、彼女は、ため息をつきながら、 「血は争えないねえ」  といったのだ。  初めて聞いたのだが、母の家系は異常な麻雀好きで、特に母の上の兄は、麻雀がしたくてたまらなくなり、受験生の息子二人の部屋にいき、勉強なんかしなくていいから、麻雀をやろうと部屋からひきずり出したことがあったくらいだという。麻雀に執着するのは、私に流れている血によるものだ。これでますます強気になった。一年後、私が念願どおり、雀鬼となっているか、それともただの中年のおばさんになっているか。すべて、これからの精進と修業にかかっているのである。 [#改ページ]    マッチョ嫌い  高校生のころ、友だちとの話題は、男の子についてがほとんどだった。 「サッカー部の○○くんはかっこいい」とか、 「やっぱり野球部の××くんしかいないわね」  男の子の名前が出るたびに、私たちは、 「えーっ、どこがいいの。あんな短足」 「変な趣味」 「世の中であの子がいいっていうの、あんただけだよ」  などと、彼らについて感じていることを、いい放った。娘心は複雑なもので、好きな男の子について、友だちが、 「あら、私もあの子はいいと思ってたのよ」  というと心配になり、反面、めちゃくちゃにいわれると面白くない。女の子たちに好かれても嫌われても困った。とにかく男の子に関しては、いつも心中、穏やかではなかったのだ。  女の子に人気のあるのは、顔面もスタイルもいい男の子である。性格は二の次だ。 「あの顔面とスタイルがあれば、多少の性格の悪さなんて、我慢すればいいわ」  という女の子が多かった。性格はとってもいいものの、その他に少々難がある男の子たちは、みんなで遊びに行くときには、使い勝手がいいという理由で声がかかったが、女の子から個人的に声がかかることはまずなかった。人のいい彼らは、好きな女の子にアタックして、返り討ちにあっても、恨むこともせず、淡々と学校にきていた。 「偉いねえ」  そういいながらも、私たちは内心、 「やっぱり見てくれの悪い彼とは付き合えないな」  とシビアに考えていたのである。  そんななかで、ただ一人、好みの男の子に関して、思いもよらぬことをいいだす女の子がいた。彼女は隣のクラスのある男の子の名前をいい、 「本当に素敵」  といつもうっとりしていた。 「えっ……」  私たちは耳を疑った。とてもじゃないけど、女子高校生が好きだという感情を持つとは思えない容貌だったからだ。「色の黒いカニ」というのが、私が彼に持った印象である。それで性格がいいのならともかく、真っ黒い剛毛をマッシュルームカットにして、いつもうつむいて歩いていた。彼の色の黒さと、人と視線を合わせようとはしない態度のせいで、正直いって私は彼がどんな顔をしているのか、よくわからなかった。しかし全体的に不気味な雰囲気から、 「あれは問題外」  と私は決めつけていたのだ。 「どこがいいのよ」  びっくりして私がたずねると、彼女は、 「だって、すごい体しているんだもの……」  とまたまたうっとりした。 「えっ、体?」  もうそんなところまでいってしまったのかと、あせって聞き返すと、彼女は、 「違うわよん。プールで水着になったときにわかったのよん」  とにたっと笑った。私と彼女は、絶対水着姿になりたくなかったので、高校の三年間、一度もプールに入ったことはなかった。彼女は心臓が悪いから、私はぜんそく持ちだからと嘘をついて、いつも見学していた。私はただぼーっとみんなの姿を眺めていただけだったのに、彼女がすばやく男の子の裸をチェックしていた事実に、私は驚いた。こういうすばしっこさが、他の女の子と争ったときに、差がつくのだなと感心したりもした。 「彼の胸板の厚さって、まるでギリシャ彫刻のようなのよ。ここのところがこうなっててねえ……」  彼女は彼の胸の筋肉がいかにすばらしいかを説明した。私は、 (いくら胸の筋肉がきれいでも、あの顔は嫌だな)  とつぶやいた。一緒に彼女の話を聞いていた友だちは冷静な声で、 「ねー、胸の筋肉がいいのはいいけどさあ、下半身はどうでもいいのかしらね。私は下半身のほうが大切だと思うけど」  と私の耳元でささやいた。彼女は私たちのなかでただ一人の、経験者であった。その経験者の発言は、未経験者の私たちには絶大な影響力を持つのである。 「でもさあ、海パンをはいてるから、そんなこと、わかんないじゃん」  小声でいい返すと、彼女は、 「ふふふ」  とふくみ笑いをした。男の子の裸にうっとりしている友だちと、上半身よりは下半身だといいきる友だちにはさまれて、私は呆然としていたのであった。  プールの見学時に、同じように男の子たちの裸を見ていたのに、私は男の子の裸を見ても、何とも感じなかった。胸がどきどきすることも、 「あの子の体、好みだわ」  とにたっと笑うこともなかった。そこに並んでいるのは、十把ひとからげの男子高校生の裸体だった。そのなかには私が好きな男の子もいたが、彼がどういう体つきをしていたかなんて、全く覚えていなかった。まず体が気にいり、不細工な隣のクラスの男の子が好きになった友だちの話は、私をただただびっくりさせるばかりだったのである。  先日、既婚の友だちが、 「J MENS TOKYOに行ってきたあ」  と興奮して話していた。テレビでその店がどういうものであるかを見たことがあるが、カルバン・クラインの広告に出てきそうな、パンツ一丁の美形の外国人の男性が、舞台で踊っていた。客席は若い女性が多く、男性のはいている小さな三角形のパンツのひもの部分に、チップの紙幣を我先にと次々にはさんでは、きゃあきゃあ騒いでいた。私は画面を見ながら、 「顔のそばに、好きでもない男性の股間をくっつけられて、気持ち悪くないんだろうか」  と首をかしげていた。あんなところに行く女性は、精神的に満たされていないとか、何か問題があるのではないかなどと思ったりもした。ところが友だちが行ったという話を聞き、私はますます頭が混乱してきたのである。 「いやらしいとか、そんなんじゃないの。明るくてものすごく面白いの。また行きたいわ」  彼女は目を輝かせていた。 「次は一緒に行きましょうよ」  と誘われたが、私は首を横に振り、 「あんなとこに行けるか!」  と一喝した。好きでもない男性の裸を見てもうれしいとも思わないし、素敵だとも思わない。特に外国人の場合はそうだ。相手がスタイルがよければよいほど、顔がハンサムであればあるほど、現実味がなくなって、お人形みたいな感じがするからだ。登場する男性たちのパンツの分量が、妙に少ないのも気持ちが悪い。 「本当にみんな、きれいなのよ」  彼女はうっとりしていた。私が歳をとったのかもしれないが、いくら男性の股間がもっこりしていても、何も感じなくなってきた。それどころか、あまりに大きいと、 「病気じゃないのかしら」  と心配になってくるくらいである。  別に選んだわけではないのだが、私の友だちには、男性の裸が好きな人が多い。そういう人は間違いなく、マッチョ系が好みである。 「体つきがいい男は、だいたい頭が悪いから、そういうのって最悪じゃないの」  というと、 「それでもいいよ。付き合うわけじゃないんだから」  といわれた。彼女たちにとっては、そういう男性は観賞用なのだそうである。だからいくらマッチョ系であっても、たとえば剣道の選手みたいに、防具で体を覆っていてはいけないのだそうだ。観賞用だから体を覆い隠していてはまずいので、なるべく裸に近い格好の人がいいという。ところがふだんの生活のなかで、そんな格好をしている奴なんかいない。だから「J MENS TOKYO」にいくと、日頃のうっぷんが晴らせる。嫌な現実をすべて忘れて、男性の裸体に没頭できるといっていたのである。  私は男の人のマッチョ系は苦手である。外国人のような濃い顔立ちもだめだ。とにかく体型的にも精神的にも、濃くて圧迫感のある男性は生理的に嫌いだ。存在を強調するタイプよりも、自分自身をささやかに主張しながらも、ひっそりとしている人が好きなのだ。こういう私と、パンツ一丁で、腰をくねくねさせている裸の男と、相性がいいわけがない。そうはいっても、好きな男性の裸を見たときには、 「なかなかいいなあ」  と思った。しかし体自慢の彼らに対しては、 「きゃー、素敵」  という女としての目よりも、郷里の知り合いのおばさんみたいな感情のほうが、先にわいてきてしまう。 「異国で裸になって商売をして、大変だねえ」  といいながら、お兄ちゃんたちの腰のひとつも揉んでやりたくなる。チップをはずむ観客には絶対になれない、舞台裏で彼らの腰を揉む、お世話がかりのおばさんみたいなもんである。 「ダンスが好きなんだろうけど、いくつミュージカルのオーディションに落ちたことやら。人の前で踊れるのが幸せなんだろうけど、本当はこういうことは、したくないんじゃないの。『いつかおれも、有名なミュージカルスターだ』と心に決めているかもしれないけど、だいたいそこまでいかないで、終わっちゃうんだよねえ」  裸で踊っている若くてきれいな男性をテレビで見ても、 「まあ、現物を見たいもんだわ」  などとうっとりせず、こういうことしか思い浮かばない私は、女をやめたほうがいいのかもしれない。友だちは、 「いつも胸をときめかせていたいの。あそこには、それがあるのよ」  という。正直いって、あれが「胸のときめきを満たすものなのか」といいたくなるが、男性の裸体を観賞するのが好きな女性にとっては、「待ってましたっ」といいたくなる所なのだろう。 「みんな遠慮して、パンツのひものところにチップをはさんだりしてたんだけど、私はまっすぐ直球勝負で、ド真ん中にチップをねじこんでやったわ、はっはっは」  友だちはそういって声高らかに笑い、私のド肝をぬいてくれた。男性の裸が見たいと思ったら、率先して見に行く。自分の欲しているものに、とびこんでいく気迫が、彼女たちのエネルギーになっている。しかしすでに枯れつつある私には、やはり気恥ずかしいことだ。「みなさん、どうぞお元気で」というしか、出演者の彼ら、観客の彼女たちにかける言葉はないのである。 [#改ページ]    ゆ る い 男  友だちと話していると、女性に共通の体質というのがある。女性はだいたい便秘体質である。 「何日も出ない」  という話は山のように聞くが、その反対はほとんどない。大酒を飲んで、腹具合が悪いという話はあるけれど、 「もう、出ちゃって、出ちゃって、大変なのよ」  という女性は皆無といってもいいくらいなのである。しかし男性はその逆が多いようだ。男性は、便秘で辛いタイプよりも、下痢で苦労するタイプが多いのである。  仕事で旅行にいったメンバーのなかに、複雑な体質の男性がいた。旅行中、彼はだんだん無口になっていった。 「具合でも悪いの」  と聞くと、 「悪いような悪くないような……。ま、いつもこんなもんなんですけどね」  とわけのわからないことをいう。それを横で聞いていた同じ会社のAさんという女性が、 「また、はじまったのね」  といってにたっと笑った。すると彼は、 「やめてくれ、やめてくれ」  といいながら、真顔で後退りしていったのだ。普通は出ないタイプか出るタイプか、二つに分けられるが、彼の場合はそれが複雑にからみあっているのである。  彼は旅先に来てから、ずーっと便秘であった。本人は辛いかもしれないが、それ自体はあまり問題はない。ところが彼の場合は、便秘が続いたあと、何かのきっかけで、突然、括約筋がゆるみ、三十秒ももたなくなる。そのきっかけというのが、ミルクであったり、食べ物であったりするのだが、人の言葉にも反応してしまう。 「そろそろ、したくなるんじゃないの」  といわれると、時によっては、我慢できないくらいの便意を催す。それゆえ、 「世界一、括約筋の弱い男」  との異名をとっているというのだ。 「実は、後ろのほうだけではなく、前のほうもゆるいみたいなんです」  そういって彼は、外国で起こった、悲劇を話してくれたのであった。  彼は仕事でロンドンに行っていた。涼しいというよりも、ちょっと寒いくらいの季節で、彼は公園で散歩を楽しんでいた。芝生のところで、寝転んでいる人もいる。 「ああ、のんびりしていいなあ」  と思ったとたん、どういうわけだか尿意を催した。普通ならば、尿意というのは催しても、多少、時間の猶予はあるものだ。ところが彼の場合は、催したら最後、 「今すぐ出さないと、あー、大変」  という状態に陥るのであった。 「こりゃ、まずい」  と彼は広い公園のトイレにかけこもうとした。ところが運悪く、清掃中であった。おばさんが親切に、別のトイレを教えてくれたが、あまりに離れたところにあって、そこにいくまで持ち堪《こた》えられそうにない。日本だったら、人目につかない茂みに入っていって、こっそり用を足したり、通行人の非難の視線に耐えれば、電信柱の陰での用足しも可能である。ところがその公園はあまりにだだっ広く、用を足せそうな場所など皆無だったのだ。  そのうち我慢できなくなってきて、脂汗が流れてきた。どうしようかときょろきょろと辺りを見渡すと、すこし傾斜した芝生の生えた場所があった。さいわい、そこには誰もいない。彼はひきつけられるようにそこに行き、両手で必死に穴を掘った。ところが芝生の根があって、なかなか掘れない。それでも切羽つまっている彼は、必死で穴を掘った。そしてその芝生に俯《うつぶ》せになった。他人の目には、まるで芝生の上で気持ちよさそうに寝ているとしか見えないのだが、実は彼は自分のモノを出し、穴のなかに用を足していたのであった。あまり深く穴を掘らなくても、よかったそうである。 「あんなほっとしたことはなかったですね。用を足しながら、『あー、これで助かった』って思いました」  ところがすっきりしたのはいいが、立ち上がると、おりからの肌寒さもあって、穴からは湯気が立ち上っていた。散歩をしている人が、湯気を発見してしまい、不思議そうに眺め、こちらにむかって歩いてきた。そこで彼は掘り出した土を穴に放りこみ、脱兎の如くその場から逃げ、知らんぷりをきめこんだというのである。 「まだまだ、あるんです」  彼は国内の出張先で、アクシデントに見舞われた。同じ会社の後輩の女性Bさんと、タクシーに乗っていた。道路は混雑していて、ほんの少しずつしか動かない。ところが突然、便意が彼を襲った。それも大渋滞の橋の真ん中でであった。 「きた……」  彼の言葉を聞いて、驚いたのがBさんである。彼の話は聞いていて、 「きた……」  といわれたら、三十秒後にとんでもないことが起こると、知っていた。 「えーっ、こんなところで」  場所を選ばないから、困るのである。彼は、 「ううっ」  と体をよじった。彼女は運転手さんに、 「大変なんです!」  と叫んだ。運転手さんが驚いて後ろを振り返ると、彼はしぼりだすような声で、 「トイレ、トイレ」  といった。 「この人、催したら三十秒しか我慢できないんです」  それを聞いた運転手さんは、 「えーっ」  と仰天し、車のなかで爆発されてはたまらないと、 「我慢してくださいよ、我慢してくださいよ」  といいながら、少しずつ、少しずつ車を前に進めた。 「はい」  彼も必死に歯を食いしばって耐えている。Bさんも、隣で、 「我慢して、我慢して」  と呪文のように唱えた。すると天の助けか、車が動きだした。そしてふと川を見ると、そんなところに、普通ないはずなのに、川べりに公衆トイレが設置してある。 「運転手さん、あそこに、トイレがあります!」  彼女が絶叫しながら指差すと、運転手さんは、 「はいっ」  と返事をして、ものすごいスピードでトイレの前に車をつけた。彼は転がるようにしてトイレに入り、何とか無事に事は済んだのだった。もちろん運転手さんには、チップをはずんだそうである。 「あと三秒遅れたら、だめでした」  彼は静かにいった。 「自分のこんな体質を、何度、呪ったかわかりません」  彼のこの体質は子供のときからで、ミルクを飲んだりすると、てきめんだったという。小学生のときは男子と女子のトイレが一緒だったので、女子用の個室で用を足すのが、とても恥ずかしかったといっていた。 「不思議よねえ」  私とAさんは腕を組んでうなずいた。 「ま、今回の旅行では、現場に遭遇するかもしれませんから、楽しみにしておいてください」  彼女がそういうと、彼は、 「他人《ひと》ごとだと思って、何をいうんだ」  とちょっと怒っていた。  その日、私たちは取材のため、外国の町中を車で走っていた。ところがある場所を過ぎたころから、車の渋滞がひどくなり、予定していた三倍以上の時間が、すでにかかっていた。朝、彼の体調の話を聞いたので、私はとても気にはなったが、話をふって意識されるとよけいまずいと思い、全く関係ない話をしていた。  窓の外にはウエディング関係の店が並んでいた。ショーウインドーには、新郎、新婦のマネキンが飾ってあり、いかにも幸せいっぱいという感じである。 「ああいうふうに、あんたもそのうち結婚するんだねえ」  Aさんがいった。 「さあ、いつになるかわからないけどね」  彼はぼそっといった。彼女はにたっと笑って、 「結婚式のとき、括約筋がゆるんだら、どうすんのさ」  と彼の耳元でささやいた。 「げっ」  彼は絶句した。 「一生に一度の披露宴の席で、緊張のあまり、突然、催すのよ。まさか新郎が中座するわけにもいかないから、あんたはじっと金屏風の前で耐えるしかない。でも、結婚式の朝、お母さんに『ミルクでも飲んで、元気を出しなさい』なんていわれて、ついつい飲んじゃったわけよ。それがじわじわと影響して、とんでもない事態になるのよね」 「もう、やめろよ」  彼は真顔になった。 「そしてさ、もう、耐えられなくなっちゃうわけ」 「………」 「で、さいごは爆発して、一同、大騒ぎっていうことになるんじゃないの」  そういって彼女は笑った。でも彼は笑わなかった。もしやと思って、私は心配になったのにもかかわらず、Aさんは彼の耳元で、 「ミルクを飲むと、一発で出ちゃうんでしょ」  とうれしそうにささやいた。そのとき彼は、 「実は今朝、ミルクを飲んできたんだ」  といった。そのとき彼女の顔色は変わった。 「えっ」 「だから、そういうことをいうのは、やめてくれ。本当に困るんだ」  彼は本気で怒っていた。車内には気まずい空気が流れた。道路の渋滞は続いていて、車は動く気配がない。もしもこんななかで催されたら、とんでもないことになる。 「あんた、どうしてミルクなんか飲んだのよ。そんな体質なら、いつもおまるを持っているべきよ」  自分に責任をかぶせられたくないAさんは、彼をなじった。 「うーん。そろそろ便秘は解消したいなと思ったからだよ」  二人は延々ともめていた。これから車は高速道路に入っていく。もしもそこで催されたら、どうなるのだろうかと、私は気が気じゃなかった。口は悪いが気が弱いAさんは、無口になって横目で彼のことを眺めていた。そして当の彼は、車が揺れるたびに、「うっ」とうめいたり、 「ちょっとお腹が痛いような気がする」  などといいだしたりして、取材先に到着する間、スリルとサスペンスに満ちた時間を、私たちに与えてくれたのであった。 [#改ページ]    水 着 繚 乱  この間、二十五年ぶりに水着を買いにいった。突然、沖縄旅行が決定したからである。おそるおそる、 「やっぱり、水着もいるのかしら」  とたずねた私は、友だちに、 「当ったり前じゃないの。水着を持っていかなくて、どうすんのよ」  と呆れられた。私は高校生のとき以来、水着姿になったことがない。それも友だちと海に行ったときだけで、学校のプールの授業のときは、体重が六十キロありながら、 「病弱なもので」  と教師にいって、見学にまわっていた。だから私はスクール水着しか着たことがないのである。 「無地の競泳用の水着でも買うか。ナンパされにいくわけじゃないんだから、水着であれば、何でもいいわさ」  私は大手のスポーツ店にいった。ちょうど水着コーナーが大々的に設けられたところで、たくさんの女性の店員さんがいた。私は自分に似ている、ころころ体型の店員さんに、 「ハイレッグじゃなくて、無地の水着が欲しいんですけど」  と声をかけた。こういう場合、背が高くてスタイルがいい店員さんにアドバイスを受けても、素直に聞くことができない。 「そんなこといったって、どうせあなたには、私の悩みなんかわかりっこないわよ」  といいたくなるのだ。声をかけた若い店員さんは、とても感じがよく、無地の水着が置いてある場所につれていってくれた。 「私、水着を買うのは二十五年ぶりなんですよ」  というと、彼女は、 「えーっ」  とびっくりしながら、 「どこかに行かれるんですか」  と聞いてきた。 「ええ、沖縄に……」  といったとたん、彼女は目を丸くした。 「沖縄あ? 沖縄にいくのに、この水着を持っていっちゃいけません! いけません、いけません。逆に悪目立ちします。沖縄にはだめです!」  ぐいぐいと私の手を引っぱって、華やかな花柄の水着が並んでいるところに連れていった。 「せめてこのくらい着て下さいよ」  彼女は紺地に白とグレーで花が描かれた水着を見せた。肩が丸出しになっていて、本体についている細い紐を首にひっかけて着用するタイプである。胸にはリボンがついている。 「リボンをほどいて首に結べば、どんなに泳いでも大丈夫。絶対に水着は落ちてきません」  前中央にシャーリングがしてあって、なんだかぶりぶりしている。 「あのー、これはハイレッグじゃないですよね」  念を押すと彼女は首を横に振った。 「試着しないとわからないので、どんどん着てみて下さいね」  彼女は私を試着室に押し込んだ。 「いちおう、これもどうぞ」  カーテンのすきまから、何の飾りもないワンピース水着が差し入れられた。まず、これを着てみた。 「どっひゃー」  であった。下腹の出具合、尻の垂れ具合、腕のたるみなど、もう、もろわかりである。 「ひーっ」  私は前面の鏡に映る、小柄なトドの姿から目をそらしつつ、ぶりぶり水着に着替えた。 「おおっ」  これは発見であった。さっきの水着では世間に露呈されていた下腹が、この水着を着ると目立たない。様子を見にきた店員さんに、そう伝えると、 「そうなんです!」  と胸を張り、私の水着姿を見て、体型に合いそうなものを、次々に持ってきてくれた。試着室のなかには、「試着は三枚までにお願いします」と書いてあるのに、彼女は、 「いいです、いいです。どんどん着て下さい。とにかく二十五年ぶりなんですから」  といって、差し入れてくれた。  水着のデザインがこんなに大事だとは思わなかった。腹のところにうまいこと布が交差しているために、腹がへこんでみえるもの、背中にポイントがあるために、尻がすっきりみえるもの。似合うものと似合わないものでは、体重が五キロくらい、違うようにみえる。  最初は何でもいいと思っていたのに、やはり少しでもスタイルがよく見えるほうがいいと思うようになってしまった。一枚だけ買うつもりでいたのだが、海で三泊するといったら、彼女が、 「それでしたら、三枚必要ですね。濡れた水着を着るのは気持ちが悪いですから」  という。私は紺地の花柄と、ブルー系のパレオつきとやらと、黄色と水色とシルバーが、パレットの上でぐちゃぐちゃになったような柄のと、三枚買った。  その話を友だちにしたら、 「まー、三枚も買っちゃって。シュノーケルをやりにいくんだからね。私たちが前に和歌山にシュノーケルをしにいったときは、水着の上にTシャツとサーフパンツをはいてやったのよ」  とまたまた呆れられた。 「水着が乾かないときは、生乾きのまま、『ちょっと冷たいなー』と思いながら着ればいいのよ。どうせ海に入れば濡れちゃうんだから」  他の友だちもそういった。 「そりゃ、そうだな」  私は納得した。でも十枚以上、試着したなかから厳選した三枚の水着は、どうしたらいいんだろうか。 「いいんじゃないの。せっかく買ったんだから、みんな持ってくれば。私たち、拝見させていただくから。そうそう、シュノーケルをやるときに必要なものを書いておいたから、これは絶対に持っていったほうがいいわよ」 (ひーっ)  何かとんちんかんなことをやっているようだと、うすうす感じた私は、 「はい」  と素直に返事をして、あらためて水着を購入した店にいった。  シュノーケル、ゴーグル、手袋、サーフパンツなど、メモしてあるものを買った。怪我をしないためにビーチサンダルとは別に、海用の靴も必要なのだ。ブーツタイプのものはあるのだが、これは日に焼けたときに、かっこ悪くなるので、ローカットのものがよいのだが、子供用と男性用があるのに、女性用がない。売り場の店員さんに聞いてみると、 「もしかしたら、釣具店にあるかもしれません」  という。ビルの中にある釣具店に行ってみたら、そこにあるのは、釣り好きのおやじが履くような、絶対にすべりはしないけれど、私の趣味にはとうてい合いそうにないデザインのものばかりであった。  また店に戻り、店員さんになかったというと、彼女は系列店に電話をかけて、一所懸命、探してくれた。すると渋谷にある店に、一足だけあった。私はその一足のナイキのアクアターフを求めて、翌朝、もうろうとした頭で電車に乗っていた。 「どうして、こんなことまでしなきゃならないんだろうか」  とつぶやいたが、店でアクアターフを手にしたときは、やっぱりうれしくなって、 「これから沖縄にいって、シュノーケルをやるんだわあ」  という気分が盛りあがってきたのである。  家に帰って、やっと揃った旅行グッズをずらっと並べてみた。水着、サーフパンツ、シュノーケル、手袋、ゴーグル、アクアターフ。スクール水着は親が買ってくれたから、全部、初めて自分が買ったものばかりである。私は思わず、全部を身につけてみようと、服を脱いで水着に着替え、ゴーグルをはめ、シュノーケルを口にくわえ、手袋をして靴を履いた。鏡に映してみるとなかなかいいではないか。いかにも、 「これから沖縄に行くぞーっ」  という感じである。ゴーグルをしているため、鼻で息ができないので、シュノーケルで呼吸してみた。何だか妙だったけど、息はできる。子供のころ、弟と二人でちくわを隠し持って風呂にもぐり、 「シュノーケルだあ」  と遊んでいたのを見つかり、母親にいやというほど尻をぶたれたことを思い出したりした。 「なるほどねえ」  鏡の前で感心していると、インターホンが鳴った。びっくりして出ると、 「お荷物、お届けにあがりました」  と若い男性の声がした。 「あわわわ、は、はいはい」  私は片手で受話器を持ちながら、あわててゴーグルをかなぐり捨て、彼が来る何十秒かの間に、水着の上にTシャツとチノパンツをはいて、何食わぬ顔をして荷物を受けとったのだった。  苦労して買い求めたグッズを持っていった沖縄の海は静かであった。梅雨がまだあけておらず、曇天と時折降る大雨が、やる気まんまんの私たちをむかえてくれた。そのうえとても寒い。それでも私たちはシュノーケルを強行した。宿泊した場所のプライベートビーチでシュノーケリング・ツアーをやっていて、それに参加したのだが、参加したのは私たち五人だけだった。 「今日は寒いので、ウエットスーツを着てください」  案内してくれる青年がそういうので、三十歳の男性一人と、三十七歳から四十三歳の四人の女たちは、派手なウエットスーツに身を固めることになった。水着選びに必死になったのが、何のためだかわからない。おまけにウエットスーツを着た私の姿は、サンダーバードに無理やり参加した、間抜けな乗組員みたいなのである。しかし寒さには勝てない。その上にライフジャケットを着用し、私たちはモーターボートで、沖まで連れていかれた。 「こわいよー」  何しろ海にいくのが二十四年ぶりの私である。 「大丈夫ですよ。ライフジャケットを着ていますから」  そういわれても、足が立たないところはやはり不安だ。期待と不安が交錯したものの、 「ここまで来たら、やるしかないじゃないか」  と活をいれて、脚ひれをつけて海にとびこんだ。ライフジャケットをつけているから、海中に沈むことはないのだが、ぷかぷか浮いているのも、妙な気持ちである。 「いいですか、パンを投げますよ。このパンを持っていると、魚が寄ってきますからね」  青年はボートの上から、丸いパンを私たちに投げてくれた。パンを手にしながら、意を決して顔をつけると、そこには今までに見たことがない景色が広がっていたのであった。  これまでテレビで海の中を写した映像を見ても、私は特別な感動もなく、 「へえ、こういうものなのか」  と思っただけだった。色とりどりの魚が泳いでいたり、ヒトデがうごめいていても、 「ふーん」  と眺めていた。ところが沖縄の海に行って、シュノーケルをやりながら、のぞいた光景を見て、私は驚いた。 「これって、本当に、本当なの」  とつぶやきながら、水面下に釘付けになった。これが自然にできたものであるとは、とてもじゃないけど思えなかったからである。  グリーンとブルーがまざったような、不思議な色合いが、見渡す限りに広がっている。足元には、白、ベージュ、紫色のテーブルサンゴが見える。サンゴの色に紫色まであるとは、知らなかった。その横には、どーんと深くなっている部分がある。底に行くに従って、グリーンとブルーがだんだん濃くなっていって、深い部分がどうなっているのか、全く見えない。 「うっ」  これを見たとき、私は突然、恐ろしくなった。息はちゃんとシュノーケルでできるし、ライフジャケットを着ているから、そのまま海底に沈んでしまうことはない。そう頭ではわかっていながらも、恐怖はのしかかり、 「わあ」  といいながら、手足をばたばたさせてあばれ、そばで泳いでいた友だちの頭を、げんこつで思いきりひっぱたいてしまったのであった。  できれば水面に顔を出して、ひと息つくために立ち泳ぎをしたいのだが、うまくいかない。脚ひれが邪魔になって、体が垂直にならず、どうしても腹這いで浮かんでしまうのである。ライフジャケットと脚ひれをつけた体を、だましだまし動かしながら、やっとの思いで立ち泳ぎ状態になりかけると、また腹這い状態になってしまう。このままで顔面を水面の上に出すとなると、体をエビぞらせるしかなく、私は根性のないしゃちほこみたいな格好で、ぶかーっと海面に浮いていた。  顔をあげると、遠くに砂浜が見える。曇天にもかかわらず、デッキチェアに座ったカップルや、散歩している人の姿がある。左側にはキャンプ用のテントも見える。それなのに、ふと水面下を見ると、そこにはテーブルサンゴが広がっている。私は水面に顔をつけたり、あげたりしながら、 「この両方の世界は、いったい何なんだろうか」  と呆然としていたのである。  緊張して両手をげんこつ状態にしていたものだから、魚を集めるためにもらったパンは、右手のなかでみごとに圧縮されていた。みんなはどうしているのかと、ふと見渡すと、みなちりぢりになって、水面に顔をつけている。 「よしっ」  と私は気合いをいれて、水面に横になった。そしてパンを海中でほぐしたとたん、海底から、すさまじい数の魚が、私めがけて突進してきたのであった。  それはびっくりする暇もなかった。銀色、黒、青いの、小さいの、大きいの、それがパンくずめがけて集まってきて、パンを持った私の手に吸いついてきた。なかでいちばん強烈だったのは、体長が二十センチくらい。頭がずんぐり丸くて、全体が黄緑色。そこにショッキング・ピンクの放射状のラインが入っている、何ともすごいデザインの魚であった。顔だちがどことなく浜田幸一に似ていた。敏捷な銀色や黒の小魚に遅れをとったものの、体をぶりぶりと振りながら、パンくずを食べていた。魚と同じ水中にいて、魚たちを見るのは、水族館で大きな水槽を眺めたりするのと全く違う。こんなに生き生きとして、魚がきれいなものだとは思わなかった。餌を求めて魚たちは私のまわりをぐるぐる泳いでいたが、パンがなくなると同時に、私の前から姿を消してしまった。  ほっとしたとたん、どーんと深くなった部分が目に入った。また、不安が私を襲った。シュノーケルをやっていると、自分の呼吸音が聞こえる。シュノーケルを口から離さない限り、息はできる。そういう状態が水中で楽なのは当たり前なのだが、その当たり前が、不安につながるのだ。水の中にいたら、呼吸が苦しくなるのは当たり前なのに、そうならないことに、 「おかしい」  と体が反応し、いてもたってもいられなくなる。 「ああっ、鼻で思いっきり息をしたい!」  私は急いでボートのところに戻り、足をかける船尾のステップにつかまり、ゴーグルをずりあげて、 「はあはあ」  と鼻と口で思いっきり息をして、やっとひと心地ついたものの、ものすごい虚脱感に襲われた。生まれて初めてのことをやるのは、この歳になるとなかなかきつい。悪いことばかりを考えてしまう。いくら係員の青年に、 「ライフジャケットを着ているから、大丈夫ですよ」  といわれても、ダイバーが潮に流された事故などが頭に浮かび、波もない穏やかな海だというのに、 「ううむ、自然では何が起こるか、わからんぞ」  と警戒しまくるのだ。  このままずっと、ステップにつかまっていようかしらとも思ったが、また海の中を見たくて、ステップから手を放し、ばたばたと泳いでいった。脚ひれをつけているのも、不思議な感覚だった。陸上の距離の感覚と、水中の距離の感覚とは全く違うので、下を見ながらばた足をしていて、ふと顔を上げると、私の心のよりどころのボートから、ずーっと離れてしまっていたりする。脚ひれをつけているので、ずんずん前に進むのだが、いまひとつその度合いがつかめないのだ。自分の思っていた以上にボートから離れた私は、 「えらいこっちゃ」  とあわててUターンする。ボートの位置を中心に、半径十メートルの区域の間を行きつ戻りつしていたのであった。  そのうち私はぐったり疲れてきた。ウエットスーツを着ているとはいえ、海の中で体は冷えきり、おまけに雨も本降りになってきた。 「はー」  私はまたまた得意の「船尾のステップしがみつき作戦」に出たが、今回は二度とステップから手を放したくなかった。時間にして、十五分か二十分だったにもかかわらず、けだるくて動く気になれない。何よりも疲れたのは、脚でも腕でもなく顎だった。シュノーケルが私の呼吸をささえている、唯一の道具だったので、水中を見ているときに必死にくわえすぎていたらしいのである。  もう一人の友だちと、ボートに上がり、タオルを肩にかけて休んでいるうちに、だんだん体は冷えてくる。こういう気候に慣れているはずの、係員の若い男性も、 「寒いですねえ」  というくらいであった。だんだん歯の根も合わなくなってきて、私たちはがちがちと歯をならしながら、紫色のくちびるで他の人があがってくるのを待っていた。  雨が激しくなり、浜に戻ることになった。同行した男性は、 「ふと気がつくと、魚が隣にずっとくっついて泳いでた」  といった。長さが一メートルくらいある、魚か海へびかわからないが、そういう生物を見た人もいた。私も面白かったが、寒さには閉口した。水着を新調したのに、この寒さでは何もならなかった。といっても、シュノーケルをやりにきたのであって、みなさんに水着を披露するのがメインではない。水着だけでこの寒い海に入るのは、信じられないことであった。  早くこの寒さから逃れたいと、私は浜についたとたん、温水シャワーにむかって走った。ウエットスーツのジッパーを開けて、温水シャワーを浴びていると、 「世の中にこんな幸せなことがあるかしら」  といいたくなるくらい、気持ちがよくて、いつまでもシャワーに打たれながら、ごろごろと喉をならしていた。  ところがいざ脱ごうとすると、ウエットスーツが、ぴったりと体にはりついて離れない。 「うーん!」  と満身の力をこめて、肩から脱ごうとしても、にっちもさっちもいかないのである。それを見た友だちが、脱ぐのを手伝ってくれた。ウエットスーツの下に私が着ていたのは、肩が丸出しになっていて、水着本体についている紐を、首にひっかけて着用するタイプである。友だちはウエットスーツの袖から、私の腕を抜こうと、スーツを引き下ろそうとしてくれたのだが、それと共に水着もずり下がり、乳が丸出しになりそうになった。私は、 「あー、乳が、乳が」  といいながら、あわてて水着をずりあげ、ますますウエットスーツを脱ぐのに手間取ってしまったのだった。  翌日は車で移動して、また海に行った。昨日とはうって変わって、太陽が顔を出し、 「これぞ、沖縄」  といいたくなる天気だ。 「また、シュノーケルをやろう」  いさんでやってきたのに、そこではシュノーケルは禁止。私たちは落胆し、海でちょこっと泳いだり、ビーチパラソルの下で、ぐたーっとしたり、たらんこたらんこしていた。  私の目の前を歩いているカップルを見ると、女性が私と同じ水着を着ている。もちろん彼女のほうが似合っていたのは、当然である。あれだけ試着して選んだ水着なのに、私はこの水着には愛着がなくなってきた。周囲にいるのは若いカップルや若い女性の二人連れ。その女性たち目当ての若い男の集団ばかりである。明らかに平均年齢の高い私たちは、ビーチで浮いていた。 「ねー、今、あのカップルの所に走っていって、私が同じ柄の水着を着てる彼女の隣に並んでさ、『どっちが彼女だ』っていったら、彼はどうするかなあ」  私は横にいる、頭からタオルをかぶり、その上につばの広い帽子をかぶった友だちに尋ねた。 「張り倒されるよ」  彼女はぼそっと答えた。 「そりゃ、そうだよね」  私もぼそっと答えた。オレンジ色のプリントと、鮮やかなグリーンの花柄の水着を着た女の子のあとを、茶髪の男の子二人が追いかけていった。私はこの水着を選んだことを後悔した。沖縄で悪目立ちしても、シンプルな競泳用の水着にしておけば、ウエットスーツを脱ぐときに、乳が出るとあわてなくてもすんだのだ。 (東京に帰ったら、シンプルな水着を買おう)  私は沖縄の青い海を見ながら、けだるく考えたのであった。 [#改ページ]    百 猫 百 様  私の友だちには猫を飼っている人が多い。そのなかのKさんが飼っていた猫が、先日、十三歳で亡くなってしまった。体重が二十キロ近くあったものの、真っ白な毛並みでかわいい顔だちをしていて、おっとりとした性格の猫だった。外国人の体型のように体が太いのだが、顔は小さく、手足が細い。ケージにいれて獣医さんのところに連れていくと、居合わせた人は顔だけを見て、 「まあ、かわいいわねえ」  という。しかしケージから出た、ウエスト六十五センチの堂々とした姿を見ると、みな、 「うわあ」  と驚き、おじいさんに、 「これは何という生き物ですか」  とまじめな顔で聞かれたこともあったというくらいの猫だったのである。  猫の具合が悪くなってからの、Kさんの心労にはただならぬものがあった。餌を食べなくなったので、体調の変化に気がついた。それまで彼女は、その猫のことを、 「どうしてあんなに、意地汚いのかしら。キャットフードを腹いっぱい食べたっていうのに、冷蔵庫のドアのパタンという音がすると、ささーっと走ってきて、じーっと私の顔を見てるのよ。全く、嫌になるわ」  とこぼしていた。とにかく食べることが大好きで、なんだか一日中、餌入れの前に座っているような気がするといっていたのである。  私はうちで飼っていたトラと、友だちのSさんの猫の話をした。トラにはいちばん最初に餌をやっていたのだが、食卓の上に載っているおかずと、自分の前にあるおかずを必ず見比べて、もらってない物があると、じーっと食卓を見ていた。 「どうしたの、食べなさい」  といっても絶対に食べない。猫の視線の先にそのおかずがあるのを悟った母親が、 「ほら、あんたはニンニクが入った、野菜炒めなんか食べないでしょ」  と目の前に持っていって、これは食べられないと猫が判断すると、やっと餌を食べ始める。酢の物や辛子和えのときは、いつもこうだった。どんなに、 「あんたはこれは食べられないよ」  と口でいっても、目の前に持っていかないと、絶対に納得しないのだった。  Sさんの猫は、やはり食べるのが大好きな、ころんとしていてかわいい太目のオスである。ところがあるとき、突然、姿が見えなくなった。外に出しているわけでもないし、開いている窓もない。いったいどうしたのかと、押し入れ、トイレ、風呂場など、家中を必死に調べまくったら、何と猫は冷蔵庫の中に入っていたというのであった。 「うちのも大食らいだけど、それはまだやったことはないわねえ」  その話を聞いて、Kさんは大笑いをしていた。その矢先、飼っている猫が体調を崩したのである。  まず、食べ物に執着がなくなり、時折、吐いたり、草だけしか口にしない日も多くなった。 「歳をとっているし、お腹の調子が悪いこともあるのかな」  と気にはなっていたが、食が細くなった以外は、日常生活に変わりはない。日がいちばんよくあたるソファの上で、ぐだーっと気持ちよさそうに寝ている。そういう姿を見ると、とても体調が悪いとは思えず、彼女は一週間、様子を見ていた。  別に痛がるわけでも、苦しがるわけでもない。が、物を食べないのには変わりがなく、彼女はかかりつけの獣医さんに猫を連れていった。血液検査をしてもらったら、異常がみつかり、そこよりも大きな病院で、入院させて輸血をしてもらうことになった。血液の状態が普通ではないといわれたこともあり、彼女はとても心配して、 「万一のことがあったら、どうしよう」  とうちに電話をかけてきては、毎日、泣いていた。うちのトラは、自由に家に出入りしていたこともあって、外で亡くなることを選んだようだった。死ぬ前に挨拶にきたものの、トラの亡骸《なきがら》を私は見ていない。だからいまひとつ死んだという感覚がない。今でも、もしかしたら、どこかで生きているんじゃないかと思ったりすることもあったのだ。  Kさんの場合は、猫の体調の悪さを現実問題として、受けとめなければならなかった。勤めから帰ると心配で、すぐ獣医さんのところに電話をして、それからうちに電話がかかってくる。ある日、彼女はとても明るい声で電話をかけてきた。最初に診てもらった病院から、血液検査の結果が間違いだったと連絡が入ったというのだ。 「本当に心配しちゃったわよ」  そうとなったら、入院させておく必要はないので、引き取ろうとしたら、大きな病院で、 「せっかくだから、きちんと検査をし直しましょう」  といわれた。彼女は猫はたまたま体調が悪くて、物が食べられなくなったと思っていた。ところが検査の直後、その病院からすぐ連絡があり、腫瘍が発見されたので、これからすぐ手術をするといわれたというのであった。突然にそんなことをいわれ、彼女は仰天した。頭の中に、 「年寄りだし、手術などしないで、このままにしておいたほうがいいんじゃないか」 「先生がそういうのだから、すべてまかせたほうがいいのでは」  と相反する考えがぐるぐると渦を巻いたが、先生のいうとおり手術をしてもらうことにした。何だかわけのわからないうちに、猫が手術をすることになってしまい、彼女は呆然としていた。うちに電話をかけてきたときも、 「そういうことになったから……」  と放心状態であった。  残念ながら、手術の翌日、猫は亡くなってしまった。電車を乗り継いで病院にかけつけると、まだ猫の体は少し温かかったという。真っ白な猫なのに、開腹の跡が黒い糸で縫ってあった。腫瘍は二キロもあり、よくここまで生きていたというくらいだったと先生はいったそうだ。  それから彼女は、お葬式や墓地の手配をし、気丈に事をこなしていた。うちにも彼女からもらった猫の写真が何枚かあったので、しばらく机の上に水と花と一緒に置いていた。心配していたよりも、彼女は元気そうだった。あまりに明るいので、ちょっと気にはなったが、すべてが一段落したあと、彼女は具合が悪くなって、一週間、寝込んでしまった。寝ている間に、彼女はある程度ふっきれたようで、また社会復帰した。 「家に帰ると、いつも玄関に迎えにきたのに、今は当たり前だけど、迎えにこないじゃない。そういうときに、ああ、いなくなっちゃったんだなって思うわ」  いつかはこういう日がくると、覚悟はしていたものの、やはりダメージはきつかったようである。  その話を猫を飼っているAさんに話した。以前、亡くなったその猫の写真を見たことがあるので、彼女も、 「かわいい顔をした猫だったのにねえ」  とつぶやいた。彼女の飼っている猫は十歳のシャム猫で、ふだんはとてもおとなしい。うちのトラはめったやたらと、ふにゃふにゃと鳴いてつきまとってきて、相手をしてやらないと怒ったものだった。しかし彼女の猫は、遊びにいっても、おとなしく部屋の隅にいるだけだ。時折、尻尾をたてて、体をすりつけてくるけれど、あとは淡々と好き勝手なことをやっている。いかにも「おりこうさん」といいたくなるような、かわいらしくて賢い猫なのである。  ところがこの猫にも弱点があった。車に乗せると怯え、「おわあ〜あ〜あ〜」と乗っている間中、ずーっと鳴いている。特に高速道路とトンネルは苦手で、ひときわ大きな声で鳴くのである。運転しているAさんは、後部座席のケージの中にいる猫にむかって、 「うるさい!」  と一喝し、私に、 「かまわないでね! 甘えているだけなんだから」  という。猫には猫の分があるので、それをちゃんと納得させなければいけないという。べったり甘えさせるのは、よくない。厳しくするべきところは、厳しくしなきゃいけないというのであった。  その後、Aさんは喘息になり、猫の毛もよくないということになって、Mさんに飼ってもらうことになった。ところがMさんに飼われてからというもの、あんなにしゃきっとしていた猫が、でろでろになったと、Aさんはこぼしていた。食べ物の好き嫌いをいうようになり、気にいったものが出てくるまで、ずーっと鳴いている。 「私が飼っていたときは、やったものは何でも食べたし、もっときりっとしてたのに」  Aさんは嘆く。猫用のおやつまで買ってかわいがっているMさんに、 「あなたが甘やかすからよ」  と怒るのである。 「あー、あんたは堕落したわねえ」  猫にむかっていうAさんのことばを聞いた私とMさんは、 「きっと、何をやってもすぐ怒られるから、猫は怖くて体が硬直してたんだよね」  とこそこそ話した。  私たち三人が、明け方まで話をしていると、猫はずっとそばにいる。 「あんた、先に寝ればいいじゃないの」  Mさんが笑いながらいうので、猫のほうを見ると目の玉が上にいき、舟までこいでいるというのに、きちんとお座りをしたまま、その場を離れようとしない。とにかく人が好きなのだ。Aさんは、 「この子、顔がちょっと黒くて、こそドロみたいでしょ」  といって、「こそドロ」だの「お調子もん」だのと呼んでいる。それに猫はじっと耐えているのである。  Kさんの猫が亡くなったことを知らせた直後、Aさんは猫をつかまえて、 「ねえ、あんた。いつまで生きてるの! まだ生きるつもりなの!」  と迫った。するとおとなしい猫が、 「おわあ!」  と大きな声で鳴いた。何だか、むっとしたような声の感じであった。 「ま、生きてるものだから、死ぬのはしょうがないよねえ。あなたは、どうするのよ。この子が死んだら」  AさんはMさんにたずねた。 「近所の猫に殉死してもらう」  彼女は真顔でいった。もしも私が猫を飼っていて、亡骸を目の前で見たら、どうしようもないということは、重々わかっていながら、 「どうして、うちの猫だけ、こんなことに」  と思うに違いない。でも必ず、その日は訪れてしまう。自分の死ぬ姿を見せなかったうちの猫は、食い意地が張っていてお喋りだったが、いちばんの飼い主孝行をしたのかもしれない、と思ったりしたのである。 [#改ページ]    タイのクチボソ  九月の中旬にタイの島に行ってきた。タイ行きがほぼ九十パーセント決まったとき、同行する友だちから電話があった。 「タイに詳しい人から聞いたんだけどさ」  彼女の声は暗い。 「タイの九月って、まだ雨季なんだって。ずっとは降らないらしいけど、スコールが一日に何度かあるらしいよ」  私たちは青い空の下、青い海でシュノーケルをやり、疲れたら浜辺のパラソルの下で昼寝をする姿を想像していた。私はタイ行きのために、競泳用の水着まで新調した。昔、買ったサンドレスも、やっと日の目を見ると思っていたのである。ところが雨季と聞いて、私たちの気持ちはちょっと萎えた。別の場所に変更しようかという案もでたが、 「まー、行きゃあ何とかなるだろう」  と相談がまとまり、一同は雨季をものともせず、シュノーケルやゴーグルを携えて、島に向かったのである。  飛行機のなかで、行く場所をチェックしていて、私はあらためてびっくりした。タイは香港よりも遥か遠くにあり、訪れる島はもっと南にある。そのうえもっとびっくりしたのは、シンガポールがその南にあった。ベトナムのほうが香港に近い。タイもシンガポールも、香港のすぐ近所にあるとばかり思っていた私は、 「アジアは広いのね」  とつぶやきながら、トランジットを含めて、八時間を移動に費やしたのであった。  島の空港に着いたとたんにスコールが降ってきた。ホテルまでは車で約一時間。ところが五分ほど走ると、雨がやんだ。街路灯がないために、車のヘッドライトと道端の店の明りだけが頼りである。それなのにホテルの迎えのリムジンを運転しているお兄ちゃんは、びゅんびゅんとぶっとばす。メーターを見ると、百キロである。その横をカブに乗ったおじさん、カップル、親子連れが走る。みなノーヘルだ。若い男の子たちは、みなとてもお洒落で、SMAPのメンバーみたいな子ばかりである。スーツ姿でカブに乗っている女性もいる。なかには友だち三人や、親子四人でカブに乗っている人々もいる。お父さんが運転して、荷台にはお母さんが乗り、子供二人が両親に挟まって、サンドイッチ状態になったまま、傘もささず雨のなかを疾走していく。彼らのそんな姿をみると、何だかとてもかっこいいように思えてきた。  道端の店は戸や壁がないところがほとんどで、外から丸見えである。なかは子供のときに町内にあった、中華屋の来々軒みたいだ。店のテレビの前には何人もの人が集まっていた。何を見ているのかと、信号で車が止まったときに、もう一度よく見てみたら、ボクシングを放送している。 「むかし、こういう風景を見たことがあるなあ」  と懐かしがっているうちに、車はホテルへと到着したのであった。  ホテルは海のすぐそばに建っていた。ホテル以外の場所に食事に行くには、車で二、三十分、走らなければならない。何もない本当に静かなところである。フロントにも室内にも時計がなく、ここにいると時間がすべて忘れられそうだった。エレベーターも一基しかなく、六階以上は階段を使う。夜、部屋に戻るために廊下を歩いていると、いたるところに白っぽいヤモリがはりついていて、人の気配を察すると、ささっと逃げる。こういう種類の生き物が嫌いな人だと、とてもじゃないけど、いられないようなホテルであった。  翌日、海がどんなもんか入ろうとしたら、遊泳禁止の赤い三角旗がはためいていた。ビーチパラソルの下には、白人のカップルが二、三組いたけれど、泳いでいる人はほんの少しである。するとホテルのビーチ担当のおじさんがやってきて、 「胸から下のところまでは入っていいけれど、それ以上はだめ」  と教えてくれた。  シュノーケルをつけて海に入ってみると、群れた小さな魚はいるものの、視界はよくない。シュノーケルにはいまひとつであった。そこでビーチ担当のおじさんに、明日、シュノーケリング・ツアーに連れていってくれるように頼み、ホテルのプールで遊ぶことにした。このプールが問題であった。私がこれまで知っているプールは、底がなだらかな傾斜になっていた。ところがこのプールは、縦二十メートルのうち四分の一は、尻しかつからないような、幼稚園児向きの深さしかなく、そこから階段を四段ほど降りると、ふつうのプールの深さになり、それが五メートルほど続いたあと、突然、すりばち状に深くなっている。底に足がつくとへたに安心して歩いていると、すりばちの端でつるりとすべり、蟻地獄のように一気に深みにはまっていくようになっているのである。  ここは気をつけなきゃ、と思っていた矢先、私よりは泳げるが、泳ぎが得意ではないといっていた友だちが、すりばちの端で足をすべらせ、おぼれそうになった。泳ぎと息継ぎの練習をしようといさんでいた私は、それを見て、すっかりくじけてしまった。プールの幅が五メートル、足がつくところも五メートルしかないのでは、練習するにも思いっきりできない。 「いっそのこと、縦に泳げばいいじゃない」  泳げる友だちはそういったが、とにかく息継ぎができない私は、ぷるぷると首を横に振り、 「今ひとつ、物足りないなあ」  と、五メートルの間を、行ったり来たりしていたのであった。  水泳の訓練不足のまま、翌日、シュノーケリング・ツアーに出発した。船で大小ふたつの島をめぐることになった。私たちは、大きな島だけでいいといったのに、ビーチ担当のおじさんが、 「シュノーケルをやるのは、ここがいい」  と小さな無人島を推すので、二カ所、まわることになった。大きな島に行くためには、まず車で十五分走って、船着場に行き、そこからモーターボートに乗らなければならない。天気はまずまずである。船着場から、モーターボートに乗った私たちは、それから三十分の間、とんでもない目に遭ったのである。  ボートはびゅんびゅんと波の上を走っていく。ところが上下の揺れがものすごく、ライフジャケットを着ていない私たちは、だんだん無口になっていった。どこかにつかまっていないと、振り落とされそうなくらい、振動がひどく、深く椅子に腰かけていると、後頭部をがんがんぶつけてしまうので、椅子に浅く座った格好でいなければならない。しかしそれだと椅子から振り落とされそうになるので、手近にあるものにしがみつく。私は運転しているお兄さんの椅子に必死にしがみつき、 「まだ、着かないのかしら」  と遠くに見える島影に目をやっていた。とにかくその衝撃は、鉄板の上にボートがばんばん叩きつけられているといった感じで、プールでおぼれた友だちは、 「転覆したら、一発で終わりだわ。私、そんなのいや」  といって、シュノーケルとゴーグルを取り出した。そしてそれを着用し、 「何があっても、息ができるようにしておかなくちゃ」  といいながら、真顔で椅子に座っていた。 「そんなことしたって、放り出されて海に沈んだら同じだよ。変にそんなものをしてないほうがいいんじゃないの」 「きっとシュノーケルをくわえていても、落ちたときにあわてて舌を噛むと思うな」 「意外とシュノーケルの先が、変なところにはさまったりするのよね」  口々にからかっても、彼女はがんとしてシュノーケルとゴーグルをはずさず、島につくまでそのままの姿で体を硬直させていたのである。  苦労して着いた無人島には、五、六人で来ている、中年のうるさい外国人以外、誰もいなかった。彼らはただ浜で遊んでいるだけである。島に着いたとき、運転手のお兄さんが、私たちにライフジャケットをくれた。 「あったんなら、もっと早くちょうだいよ」  言葉がわからないお兄さんは、そういっても、にこにこ笑っていた。さすが、その島はおじさんが推したこともあって、魚がたくさんいた。おまけにナマコもいた。グレーに黒い点々がついているのだが、シュノーケルをやっていて、ナマコにでくわすと、黒い点が目のように見えて、ぎょっとしてしまう。ライフジャケットがあると、少し遠くまでいけるので、ここではずいぶん魚を見た。  二時間ほど遊んだあと、大きな島に行くことになった。一同、またあのボートに乗るのかと不安になり、島までどのくらいかと尋ねた。お兄さんの、 「十分くらい」  という答えにほっとしたものの、また海面に叩きつけられるのに耐え、大きな島についたのである。  ここはとっても開けている島で、売店も食堂もあった。日本人の若い女の子たちも結構、来ている。SMAP風のお洒落なタイの男の子たちが、ビーチサッカーをしていて、その横では全く濡れている気配のない、黒い水着を着た日本人の女の子の二人連れが、長い髪の毛をぱさっと垂らして、パラソルの下でくねくねしていた。 (うーむ、何かエッチな匂い)  そう思いながら、横目で見ていると、男の子が寄っていって、ナンパをしていた。 「やっぱしね」  すると、おじさんがにこにこしながらやってきた。ナンパかと身構えたら、 「パラセイリング、オモシロイ。ドオ」  と声をかけてきた。 「怖いからいい」 「コワクナイ、オモシロイ」  彼は、やろう、やろうと誘う。 「ウィーアーオールドだから、だめなのよ」  友だちがそういうと、おじさんは、 「ワッハッハ」  と笑いながら行ってしまった。  若い女の子たちが、くねくねしているなかで、私たちはがっちりと、シュノーケルとゴーグルをつけて海に入った。やはり人が多いところは、シュノーケルにふさわしくないのか、水が濁っていて小さな魚しか見えない。それもクチボソみたいに地味な色なので、見ても全然、面白くない。 「どうしておじさんが、さっきの島を推したのかわかったわ」  友だちはいった。小さな島の浜には、たくさんのきれいな貝殻も打ち寄せられていた。誰も住んでいないので、パラソルもデッキチェアもない。砂の上にタオルを敷いて、みんなで座りこむだけだった。だけど魚はいた。きっとこの島だけにしか来なかったら、私たちはきっとぶーぶー文句をいったと思う。しかしおじさんのおかげで、何とか、ぶーたれずに済んだ。 「ま、雨季だし、こんなもんだね」  一同はうなずきながら、また海面にばんばん叩きつけられるボートに乗り、船着場まで何とか無事に戻ってきたのであった。 [#改ページ]    ビデオマニア  タイのプーケット島で泊まっていたホテルの前の浜辺には、何匹かの犬が暮らしていた。いちおうテリトリーがあるらしく、遠くに大と小の白い二匹が遊んでいる姿が見えたが、こちらのほうにやってくる気配はなかった。浜辺に行った初日、待機している現地のおばさんたちが、ビーチパラソルやデッキチェアの準備をしてくれている間、荷物を持ったままじっと待っていると、デッキチェアの下に動くものがあった。  のぞきこんでみると、そこにいたのは、子犬よりもちょっと大きくなったくらいの、まだまだ子供の茶色い犬だった。細身でとてもかわいらしい顔だちで、耳がぺろんと垂れている。私たちがかわるがわるのぞきこんだり、ビデオで撮影しても逃げようとしない。はたはたと尻尾を振りながら、横になっていた。私はこの犬に「茶子《ちやこ》」と名づけ、友好を深めようと思ったのである。  そこにやってきたのは、茶子にそっくりな黒い犬だった。そこいらじゅうをぴょんぴょん跳ねまわり、 「ちょっと落ち着きなさい、あんたは」  といいたくなるくらい、元気がいい。茶子よりもちょっと大きいオスで、この犬には「黒太郎」と勝手に命名した。またまたそこに、黒太郎がそのまんま大きくなったような、二匹の母親らしき犬がやってきた。茶子はデッキチェアの下からとびだして、母犬にまとわりついて、大きく尻尾を振っている。黒太郎は相変わらず跳ねまわる。それを見た母犬は、口を大きく開け、黒太郎の首をかんで砂の上に転がしたのである。  母犬は前足で、ぐっと黒太郎の首根っこをおさえつけた。黒太郎はキュンキュンと鳴きながら砂の上で転がっていたが、母犬はそれにかまわず、まるでおしおきをしているかのように、毅然とした態度をとっていた。そしてそれからは黒太郎は、あちらこちらではしゃぎまわることもせず、母犬にくっついて歩くようになった。 「なかなか見上げた母犬だ」  と私は感心した。地元のおばさんは、 「この犬たちはビーチに棲んでいるんだよ」  という。そういえば、そばにやってくるたびに、ふんふんと必要以上に私たちの手元をかぐ。しかしちゃんと節度を守っている、とても利口な犬たちなのであった。  翌日、再び浜辺に行って泳いだり、ぼんやりしたりしていると、日本人の新婚カップルとおぼしき若い二人連れがやってきた。二人とも肩からクーラーボックスを下げている。そしてデッキチェアに座ったとたんに、クーラーボックスを開け、中からホテルで作ってもらったとおぼしき、昼御飯を取り出して、むさぼりはじめたのであった。それも単にサンドイッチやスナック類を食べるというのではなく、立派な昼御飯である。肉はあるわ魚はあるわ、私たちは、 「あんなにちゃんとした料理を、こんなところで食べることないじゃないねえ」  といいながら、次に何を食べるかと、横目で様子をうかがっていた。  彼らの様子をうかがっていたのは、私たちだけではなかった。豪勢な昼御飯のにおいを感じ取って、母犬と黒太郎、茶子がやってきた。それもすぐそばに寄っていって、媚びまくってねだるということはせず、ちょっと離れたところにきちんと座って、 「よかったら、私らにもわけてくれませんか」  という風情を漂わせているのだ。それを見た新婚カップルは、手にしていた器からおかずをつまみあげた。そしてそれを、目の前に犬がいるというのに、ぽーんと背後に投げたのである。それを見た三匹の犬たちは本能に勝てず、ものすごい勢いで投げられた食べ物を拾いにいった。そしてぺろぺろと口のまわりをなめながら戻ってきて、また彼らの前にちょっと距離を置いて座るのだ。  カップルは図に乗って、手にした食べ物を、あちらこちらに遠投した。そのたびに犬たちは食べ物を追って走る。 「なに、あれ」  私たちはデッキチェアに座ったまま、首を横に向けて、口々にいった。 「食べ物を投げて、拾わせるなんて、最低よね」 「目の前にいるんだから、そこに置いてやればいいじゃないねえ」 「そうだ、そうだ」 「二人とも顔が丸くて、色白でむちむちしてるけどさ、目つきが冷たいのよ」 「あ、本当だ」 「やーね、やーね。ああいうのって、本当に嫌だわ」  そいつらのせいで、犬たちは浜辺を行ったり来たりさせられていた。それなのに三匹とも、尻尾を振っているのが情ない。私たちは、明日は余った御飯を持っていってやろうと相談し、不愉快なカップルを見ながら、ちょっとむくれていたのであった。  犬に食べ物を与え終えた彼らは、二人で顔を見合わせながら、サンオイルを体に塗りっこしていた。 「ねー、あなたもあの男の人と結婚して、同じことをやりたいと思う?」 「ええっ? 下らないこといってないで、さっさと泳いできなさいよ。ほら、また雲が出てきたわよ」 「いいじゃないの。人のことなんだから、ほっときなさいって」 「だって、あの二人、さわやかさがぜーんぜん、ないんだもん」  平均年齢、三十七歳の女六人は、あーだ、こーだといいながらも、彼らから目を離すことができなかった。  おもむろに男性が、バッグからビデオカメラを取り出した。そしてあれこれと指示をしながら、彼女を撮影しはじめたのである。新婚旅行の記念だから、ビデオのひとつも撮るだろう。しかし彼の撮影の仕方は、異様であった。まず彼女をデッキチェアから立たせ、着ていたTシャツを脱ぐように命じた。彼女はいわれるままにTシャツを脱いだ。下に着ているのはピンクの花柄の水着と、半ズボンである。ところが彼は突然、 「だめだ。もう一度」  と怒り、彼女にTシャツを着るように命じ、またビデオカメラをのぞきながら、彼女に同じ動作をやりなおさせた。今度は脱いだあとに、彼女がにっこり笑う、おまけつきであった。そしてそれを見た彼はうんうんと満足そうにうなずき、次は半ズボンを脱ぐようにと指示したのであった。私たちはそれを見て、びっくり仰天した。ところが彼らは周囲には目もくれず、自分たちの世界に、どんどんとのめりこんでいったのである。  これではまるで、単に新婚旅行のビデオではなく、エッチ系のビデオ撮影のようだった。彼は彼女の半ズボンの脱ぎかたも気にいらなかったようで、何度もやり直させていた。それも、「ちょっと僕たち、新婚旅行でおふざけやってるんです」といったふうではなく、旦那が監督、奥さんが主演女優のセンを狙っているみたいなのだ。 「やだー、いったい何なの、あの男」 「きっと、ビデオマニアなのよ」 「マニアはいいけどさあ、やたら怒っていてこわいよ」 「新婚旅行であれなんだから、これから大変だよ、あの女の人」 「あーあー、でも怒られても笑ってるよ、奥さん。怒られるのが好きみたい」  私たちは海に入るのも忘れて、続けて彼らを観察した。Tシャツと半ズボンを脱いだ新妻の撮影を終えた彼は、水着一枚になった彼女の姿を、足の先から頭にむかって、下から上へ撮っていった。「むちむち新婚妻、なんとか、かんとか」といった、裏ビデオの撮影を見ているかのようであった。  次は何かと期待していると、彼は彼女に海に入るように指示した。海に入るまで、もちろん彼は撮影し続けている。奥さんは見たところ、身長、百五十八センチ、体重六十二キロといった感じである。泳いでいる姿でも撮影するのかと思ったら、彼は彼女の足元を指さし、またなんだかんだといっている。離れたものだから何をいっているのか聞こえない。しばらくすると彼女は、両手を海の中にいれて、ぱちゃぱちゃやりながら、水遊びを始めた。するとまた彼が何ごとか文句をいった。彼女はぱちゃぱちゃやるのをやめ、じっということを聞いている。そしてしばらくして、同じことを始めたのだが、今度は、にっこり笑ったり、小首をかしげたり、髪の毛をかき上げたりというおまけが、またまたついていたのである。 「パターンにはまった演出だねえ。あの男、女が長い髪の毛をかき上げれば色っぽいと思ってるのよ」 「あの人、ずーっと旅行中、ああやってビデオを撮り続けるのかなあ」 「そうに決まってるわよ。あれはマニアの目つきだもん」  いけない、いけないと思いながらも、私の頭のなかには、彼らの今夜の出来事が浮かんできてしまい、あーだ、こーだと映り具合を調整しながら、二人の姿をビデオに撮るのではないかと想像すると、 「あー、もう、やめてくれえ」  といいたくなった。むちむちした新妻は、浅瀬に座って、ビデオカメラにむかって、にっこり笑っていたが、監督の指示によって体勢を変えた。そして、まるで釈迦|涅槃《ねはん》の図みたいな格好で、そこに寝っ転がったのである。すると監督はさっきと同じように、横たわった彼女の爪さきから頭のほうへ、じとーっとカメラを移動させ、何度もなめまわすように新妻の体を撮影した。昼御飯をもらった黒太郎が、そばに寄ろうとすると、彼は片足をあげて追っ払った。それを見た友だち二人は、急いで海の中に走っていき、一人は浅瀬に横たわり、一人は持ってきた最新型のハンディビデオカメラを手に、突然、彼らの真似を始めたのである。 「やめなさい。やめなさいってば」  残された私たちは気が気じゃなかった。ああいう男性は一度切れると、手がつけられなくなる。いつ二人をおちょくっているのに気がつかれるかと、はらはらしていると、気配を察して彼が振り返った。 「あー、こりゃだめだ。絶対に嫌味のひとつもいわれる」  と観念したのに、友だちの持っているビデオカメラを見たとたん、彼の目は輝いたのであった。  五分ほどして、監督のビデオ撮影は終わった。ところが今度は私たちの前をうろうろしはじめた。「中年女の水着姿」という、マニアもいそうにない、ビデオの撮影をしようとしているのかと思ったが、彼の視線は私たちではなく、デッキチェアのそばのテーブルに置かれた、最新型のビデオカメラにそそがれていた。子供がほしい物を見つけて、その前で見入っているのと同じ姿であった。新妻はどうしているのかと目をやると、砂浜にどーんと座り、バッグの中からサンドイッチを出して、ぱくぱく食べている。彼はいつまでもビデオカメラを凝視したまま、立ち去ろうとしなかった。私たち六人は当惑してデッキチェアの上でバスタオルをずり上げながら、固まっていた。そんななかで母犬、黒太郎、茶子の三匹は、ふんふんとにおいをかぎながら、そこいらへんを走りまわっていたのであった。 [#改ページ]    あ と が き  このエッセイを「文藝春秋」に連載しているとき、タイトルは何と読むのかと問い合わせが何件かあったという。 「自分で辞書を引こうとは思わないのかねえ」  と呆れ返ったりしたのだが、たしかに「海鞘」をすらっと読むのは難しい。タイトルを決めるとき、担当者から、 「好きな物と嫌いな物を並べたらどうでしょうか」  と提案された。好きな物である「猫」はすぐに決まったのだが、嫌いな物がなかなか決まらない。「痴漢」「変態」はタイトルにふさわしくないし、「税金」はシャレじゃなくなるし、「仕事」もまずい。 「何か生き物でありませんか」  といわれたが、生き物で嫌いな物はほとんどない。切羽詰まっていた担当者は、 「何かないでしょうかね、何かないでしょうかねえ」  といい続ける。早く決めなければとあせった私の口から、思わず出たのが、 「ホヤ」  だったのだ。  あるとき私は友だちと旅行をしていた。主婦の友人と、駅に隣接している名店街で買い物をしていたら、三センチ角の大きさの物が、バットの中にたくさん入れてあった。私は生まれて初めて、海鞘と出会った。売り場の人が試食をさせてくれたが、食べられないというわけではないけれど、石鹸みたいな感じがして、食べるのはこれっきりでいいと思った。海鞘の形はちょっとかわいいが、味はバツだったのである。 「タイトルには、深い意味があるんですか」  とたずねた人もいたが、なーんにもない。ただこのタイトルにしたおかげで、ホヤを「海鞘」と書くことを、覚えただけである。こんな漢字を覚えても、何の役にも立たないかもしれないが、暇つぶしに読んでもらえたらうれしいです。  初出誌 「文藝春秋」平成四年十月号〜平成六年十二月号  単行本 平成七年二月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十年二月十日刊